江戸城天守閣再建之儀此歓迎仕候

2015年12月9日



江戸城天守閣を復元する計画があるようだ。
折しも今年は家康の四百回忌。
東京のランドマークとして、これほど相応しいことはない。

どことは言わないが、近代的、近未来的なデザインと謳っても、数十年も経てば必ず陳腐化するのは周知の通り。
だからこそ、日本の城郭の持つ意匠の普遍性を蘇らせる名案と思うのだ。

江戸城天守閣再建に取り組むNPOが存在するらしい。
その事務局長さんは、
「城郭建築の“最高到達点”といわれ、泰平の世の象徴でもあったこの城を“日本の歴史と伝統、文化の象徴”となるよう再建したい」
と発言している。

気になるのはその費用だが、試算がある。
仮設および現在も残る天守台の改善などが50億円。
本体工事が250億円。
資料などの展示スペース設置が50億円。
合計で350億円である。

この額で収まるとは到底思わないが、コンクリートや鉄骨などの使用を極力抑え、木材などを多用して再建して欲しいものだ。
そして法隆寺などの古寺のように、これから千年以上先の後世へと残るものであれば言うことはない。
たかだか40年か50年程度で陳腐化し、耐用年数が来て建て替える建造物を見ると、一層その想いが強くなる。

もう手遅れだが、新国立競技場もリノベーションで再利用して、それこそ日本人の「もったいない」の精神を見せるべきだった。
ところが経済を回す必要から建て替えを繰り返し、それで建築業界を潤す発想しかないから、利権に群がる毎度お馴染み政官民癒着のトライアングル構図が無くならないのだ。
チリ紙交換じゃあるまいし。

事務局長さんは更に続ける。
「資金面もさることながら、大きな木材の調達や行政の許認可など、数々のハードルがある」
さもありなん。
今度はそこに宮内庁までが許認可行政に加わることになる。
そう考えると、実現はかなり難しそうだ。

天守閣に登れば皇居内は丸見えで、とても畏れ多いこととして却下されるのがオチだろう。
ならばその方角の窓は、造っても見えないように塞げばよろしい。
すでに土台となる石垣がしっかり残っているではないか。
旭化成建材は関わっていないから大丈夫である。

とにかく東京、いや日本のシンボルはタワーや高層ビルよりも、伝統的な城郭こそ似合うと思うのだ。
そうすれば、1657年の明暦の大火(振り袖火事)で消失して以来の天守である。
想像するだけで胸躍る事業ではないか。

せめて消失からちょうど400年後の2057年完成、ということでどうか。
ただし完成しても、私は確実に生きてはいないだろう。

皇居東御苑へは、東京駅か地下鉄大手町駅から歩くと便利だ。

意外と小さな印象の大手門。

大手高麗門。

警備の詰所である同心番所。
不審者対応ではなく、大名の監視が主目的。

百人番所。
案内板には以下の説明がある。

本丸と二の丸へ通じる要所である大手三之門の前に設けられた番所です。
鉄砲百人組と呼ばれた、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交替で詰めていました。
各組には同心が100人ずつ配属されていました。

浅野内匠頭様刃傷ご乱心の松の廊下はこの辺り。

かつて大奥があったという場所から天守台を見る。

近づいてみる。

さらに近づいてみる。
写真だと造り物のように見えてしまうが、かなりの迫力というか重量感がある。
行ったことはないが、ピラミッドを前にした印象。

もっと近づいてみる。
丁寧な算木積みの石垣の上に天守閣があることを想像してみると、やはりどうしても再建して欲しくなる。

スロープを上がって天守台の上に立つ。
ど真ん中にベンチがある。

天守台には以下の説明文があった。

最初の天守閣は、1607年、二代将軍秀忠の代に完成しましたが、
その後大修築され、1638年、三代将軍家光の代に、
江戸幕府の権威を象徴する国内で最も大きな天守閣が完成しました。
外観5層、内部6階で、地上からの高さは58メートルありました。
しかし、わずか19年後の1657年、明暦の大火(振り袖火事)で、
飛び火により全焼し、以後は再建されませんでした。

武道館の玉ねぎが見えた。

帰りは潮見坂を利用する。
今度は日比谷入江が目前に迫っていたであろう江戸時代の光景を想像してみる。

内濠のさらに内側にある白鳥濠。
石垣の高さにちょっとだけ驚く。
人力でもこれだけのものが造れるのかと感動。

桔梗濠と内堀通り。
この左手辺りに、本所へ移る前の吉良邸があったはず。
皇居東御苑はアクセスもよく、ちょっと散歩でもという場合には最適である。


私が幼い頃には、まだかろうじて江戸時代生まれの人が生きていて、そう考えれば明治維新なんてそんな昔の出来事ではないのだと気づく。
断っておくが、私はまだ年金を受け取る年齢ではない。

しかしやがて、明治生まれの人もいなくなるのだろう。
明治時代は1868年~1912年。
ということは、まだ万単位の方々がご存命のはず。

1898年生まれだった亡き祖母から、もっと色々な話を聞いておけばと、後悔にも似た寂しさがある。
高齢者の言葉には、体に染み渡るような滋味があるのですよ。


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