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ちびすけ。4⃣

社会人2年からのお話。

年度の切り替わりで、例年ではあり得ないと言われるくらいの人事異動があった。

抜けたグループ長の後を引き継いだ先輩は自己都合で非正規職員になり、
私の1つ上の2人いた先輩はそれぞれ別のグループに飛び、
私の所属するグループの正職員で残ったのは
私1人だけになった。

そして異動の結果、
元々グループ(幼児)でグループ長の経験のある方が戻ってきて、
元々、他グループにいて、育休から復帰した方。
他グループから異動してきた方。
私。
新入社員として入職した男性。

の5人体制になった。


最初、私は人間関係を築きあげるのに
どうしたら良いのか分からなかったし、
何となく、1年目の時のトラウマのようなものがあった。

しかし、私が子どもと同じ目線に立って
子どものように無邪気に遊び
それでも子どもの為に色々と試行錯誤している私をみて

そんな私に気付いて認めてもらえた。
そして、私の素の部分を見て

「〇〇ちゃんってそんなにはっちゃけるんだね」
と良い意味で言われた。


例えば、私がディズニーのキャストになりきり、
事務所から持って来た段ボールの中に子どもを乗せて
実況中継をしながらジェットコースターのようにしてみせたり。

段ボールハウスを作って、窓やドアを
どういう形にするか子ども達に聞きながら作っていき
一緒に中に入って遊んでたりしたり。


その遊びの中で子どもの様子を観察したり
自分なりに考察をしていった。

1年目の時に研修で得たことを実践し続けた。
1つの子どもの行動に対して
「何故だろう?」を最低5個以上は挙げることを意識した。
それに対して、
「どうしたら良かっただろう?」
も何個も挙げていく事を意識した。

自分のノートに毎日それを書き連ねていった。

それを基に実践してみては
また振り返っては新しい対応をしてみたり。

常にトライ&エラーでやっていった。

そこに加えて、他の職員だったらどう対応しているかの観察をしたり、
直接、聞いてみて視野を広げるようにしていった。

そして、その冬。
乳児院からの措置変更で2歳になったばかりの女の子が入所してきた。

私は、初めてその子にとっての、
この施設での担当になった。

その子は、知的に遅れがあり
特に発語・言語理解においての遅れが強く見られた。

その子と関わるのにあたって
とても、かなり、すごく
苦労した。

何を言っても話が通じない
何を伝えたいのか分からなかった。


試し行動・注意獲得行動
癇癪
暴力


時間はかかったが、
私は真剣に向き合うことを辞めなかった。
いくら時間がかかろうとも、
その子の行動に対してとことん付き合った。
勿論、間違った対応をしないように。

すると、
その子が

何を言いたいのか
何をしたいのか
分かるようになってきた。

他の職員には、分からないことが
私には分かって、
それにより、その子から私に対する特別な安心感を少しずつ感じるようになった。

「なんで、○○ちゃん、分かったの!?」
と、他職員に言われることも多かった。
「なんか、2人の波長が合うね。その子も〇〇ちゃんを求めているし」


それぐらい関わってきたから。
その自負はある。


専門的な医療的ケアが必要で
定期的な通院に付き添った。

その行くまでの過程でも
あえて公共機関を使ったり
その中でも問題行動や特性による行動が見ることが出来た。

特性などが分かってからは、
その子が、どういう伝え方をすれば相手に伝わるか
どう発語をしたら大人は動いてくれるかを
一緒に実践したり等
具体的にケアをしていった。


今思えば、すごく真剣にその子と向き合ってきた。
そう、自負している。

勿論、他の子に対しても真剣に向き合ってきたが。



社会人になって、私にとって初めての後輩の男性には手を焼いた。

抜けてることもあれば
こちらの真意がうまく伝わらないこともあった


私が、1年目の時に
‘‘この時期ならここまで出来ていた‘‘

を、後輩に求めてしまう、
比較してしまうことが私にあり

後輩が足を引っ張ることがあった時に
私は爆発して、
勤務でない先輩に電話してマシンガントークしてしまうこともあった。

でも。
徐々にその後輩のダメなところも受け入れられるようになり、


個人にはそれぞれのペースがあり、
それを超えたものを求めたとて、出来ないし
頑張りすぎちゃうことで精神的に崩れることになってしまうこと

その人の個性を認めた上で、チームで補い合って仕事をしていく
子どもと向き合っていくことを

最終的に、その後輩は私に学びを与えてくれた。


というのも、当時の私は
常に全力投球で、
手を抜くということがどういうことか分からず

よく上司に

「考えすぎ、真面目すぎ」

「0%と100%を行ったり来たりするより、60や70%くらいを常に維持できることが大事」

と口酸っぱく言われていた。


理解は出来たけれど、
実践する、となると話は別で
私にとっては難題だった。
アルバイトの時代から、既に‘‘仕事‘‘を自分でしてきていたから。

子どもと関わるとき、特に遊んでいる時は
8人の体力の有り余る子ども達が
愛情や身体接触を求めて全力でぶつかってくる。

私は、無理矢理にでも自分のテンションを上げなければ
やっていけなかった。
そういう方法しか、当時は知らなかったから。


それは、カウンセリングの場でよく話をさせてもらっていた。


徐々に少しずつ、自分の中に落とし込めるようにしていった。

ただ、頭の中で考えすぎてしまい
段々と眠りが浅くなり、

睡眠導入剤と、抗不安薬の量が増えていった。




母よりたまに電話があった。

主に兄と弟の相談事。

最初は私には聞く余裕があった。

兄は生活保護を受けながら1人で生活していたが、
人に直接的被害を及ばずとも、
犯罪と言われる行為をして捕まった。

そして、精神鑑定をされ
強制的に入院となった。

それすらも、兄にとってはしんどくて
暴れたことで
閉鎖病棟に移された。


その件で、病院側から言われる言葉が理解できず、私は母の話を聞いただけじゃ分からないので、仕方なしに病院側に電話をいれて事情を聞き、

それをこれでもか、と細かく微塵切りにして
噛み砕いて母親に説明した。

なのにも関わらず。


母親から
「どうしてお兄ちゃんの面会に行ってあげないの?兄弟でしょ?」

そんな事を言われ続けた。


弟の引きこもりに関しての相談事も、そう。

「どうして、もっと考えてくれないの?」


私は、私なりに公的機関を紹介してそこに相談するように母に勧めた。

でも
「行っても日本語の話分からないし、日本人嫌いだし」


そんなことを言う母親だった。
何度も「フィリピンに帰りたい」と言い続ける母に対して
‘‘だったら、早く兄弟連れて帰れば。‘‘
そう言っていた。


私は自衛の為に
母親からの連絡をとらないようにした。
遮断した。

私だっていっぱいいっぱいなの。
月に6回の夜勤をして、シフト制の中
生活リズムが崩れて眠れなくて

そんな事を母親に言える訳なかった。
言いたくもなかった。

どうせ、認めてもらえないから。
小学校の時からずっと、そうだから。

母は息子2人のことをずっと見てるから。

私はただひたすらに1人で仕事に打ち込んだ。

というより、飲み込まれていった。




そして、社会人3年目になった。

新しい後輩も入ったが、
私の1つ上の先輩が元いたグループに戻されてしまった。


そして。
ウイルスが猛威を奮い始めた。
明らかに消毒や、外出などの配慮で子どもにかかるストレスもかかり、勿論職員の負荷も多かった。

明らかに業務内容が多くなった。

プライベートでも色々なことがあり
これまでの過酷な成育歴から



ーーとある7月1日。
私は休みの日に眠りこけていた私は起き上がり、
ベットから見える西日を見ていた。


ー私の中で何かがプツン、と切れた。


私は何のために生きているのか?
どうして生きているのか?
何のために働いているのか?
何のために生きているのか?
これからどうしたいのか?
いつまで苦しまなければならないのか?



何も未来に希望や明るさを見いだせなくなった。

逃げたい。
死にたい。
消えたい。
もう、何もかもから解放されたい。

涙すら出なかった。
ただ、呆然とそう思っては
ぐるぐると頭の中を色々な感情が駆け巡り続けた。

その時、タイミング良く腐れ縁の人から電話が掛かってきた。
私は、そんな戯言を吐露した。
まぁ、相手にされなかった。


その後、私は出勤することが出来なくなり、
布団から出ることも出来なくなり、

上司に想いの丈を文章で送った。
ちゃんと、その想いが届いた。

職場の産業医に話がいき、
休職することを強く勧められた。

私が1人暮らしで、
周りに頼れる大人が居ないことも知っている為、産業医から入院を勧められた。

私は、なんだかそれで治る気もしないし、
かえってお金が掛かるだけで、それを負担してくれる人も居なくて。

結果的に私は自宅療養を強く希望して無理矢理通して過ごしていた。

でも。次の精神科の通院の予定日までに
自分が自分でいられる気がしなかった。
生きていられる自信がなかった。

私は、
診察日を早める為に精神科に電話を掛けた。

そして、事情と経緯を淡々と話した。
診察日を早めてもらうことが出来た。

電話口で
主治医とカウンセラーに繋がり、


主治医からは、
「あなたと生きて会えることを望んでいます。」

カウンセラーからは、
「辛かったら、救急車を呼んだって良いんだからね。」

そう、言われた。

私は電話を切った後に
1人でワンワンと泣いた。
泣き続けた。
夜ご飯を食べることすら、
頭に無くなるくらいに
ずっと、ずっと、泣き続けた。


そして、とある友人にふと、連絡をしてみた。

その友人は最初、
「生きていればそのうち良いことあるよ。」
なんてことを言っていた。

しかし、何日か経った後に電話が掛かってきて
応答した私の態度が気になって
しょうがなくなくなったようで

私の家まで来てくれた。
その友人は異性なのだが、彼はリモートワークでパソコンと通信環境さえあれば何処でも仕事が出来るとのことで、とりあえず3か月間私の傍に居てくれることになった。

後から聞くと、彼は親戚だか、友人だかが
とある理由で自ら命を絶ってしまったようで気になるようだった。

3か月私は眠りこけた。
強制的に薬で眠りこけた。

その間、彼はずっと傍に居てくれた。
でも、その彼には彼女が居た。

私は彼に特別な感情を抱いていた。
それは、彼が私の家に来るようになる前からだった。


でも、結果的には
その感情は
実らなかった。

私は、ただただ、
気付いたらシャーペンを手に取り、
小さいノートに殴り書きをしていた。

それがこの文章。

『これは、まるで遺書を書くように並べた言葉。』


とにかく書き続けた。

書き途中の文章を、叶わなかった彼に見せてみた。
すると、この‘‘note‘‘という場を教えてもらい

私はひたすらに打ち込み、投稿した。

後に、

その彼とは、私から完全に関係を切った。
2度と連絡がとれないように。
連絡先をブロックし、その上から
ブロックリストからも削除した。

その彼の友人から、
もう彼とその彼女は同棲してることを聞いたから。

そんな話、聞いてなかったのに。

彼は最後にLINEでこう言っていた
「また、いつか元気になったらお酒を酌み交わしたい」
と。


そんなの、ありえない。
だから切った。
全て削除した。
教えてくれた友人も含めて。


それからは地獄だった。
生活リズムは崩れ、精神的に堕ちる日々。

Amazonの欲しい物リストにはロープが入っていたが
購入してしまうと本格的に実行してしまいそうでやめた。

意味もなく、スズランテープを三つ編みで編み、
出来た物を束ねて更に三つ編みに編んだ。

今思うと何をやっていたのか、
でも、気を紛らわす為にやっていたのだろう。
時間のつぶし方も分からなくて。

私は解離していた。


その事に気付けたのが、その殴り書きの文章を完結させる前で良かった。
解離していたことに自分で気付くことが出来た。
完結させてしまったら、それを遺して消えてしまいたかったから。

それはカウンセラーにも伝えた。

カウンセラーは私から『解離』という言葉が出てきたことに対して驚いていた。
そして、
『ずっと思っていたけど、どうして自分をそんなに客観的に・俯瞰して見れるのか』
そう言われた。

正直、自分でも何故かは分からない。
でも、私の成育歴から自分で吸収してそれを糧として生きてきたこと

何でも、自分に起こった出来事や、
それに対してどう思ったかを書き続けて
振り返り続けた結果なのかもしれない、と思っている。


カウンセラーより
「幼少期の方がうつ状態が今よりも酷かったと推測される。」
とあった。


私は抗うつ剤を処方された。
それから、睡眠薬。

主治医より
「3か月は寝続けなさい」
と言われ、朝昼晩とリスペリドンを飲み続け
ひたすら寝ていた。
眠りこけていた。


傍で診ていてくれていた人を
私から関係を切った後。


私はしばらく独りで闇の中に居た。

それでも、少しづつ小説や専門書を読む時間を増やしていったり、少しづつ散歩に出るようにした。

職場に復帰する為に。

本格的に復職するにあたって、
産業医から日々の記録をつけるように言われ、
毎日自分の1日を振り返った。

そして、年明けから少しずつ
まずは職場に行く事を目標として。
それから、現場に入らず
自分が職場に居なかった間の子ども達の動きや現状を記録を見て確認していった。

そして、年度が切り替わってから
きちんとした形で復職した。



社会人3年目。

最初は連勤が重ならないように
夜勤は無しで無理なく仕事をすることが出来た。

その中で、減薬をしてみたりはしてみたが
どうしても調子が悪くなり、
結局元の薬の量に戻ることを何度も繰り返していた。

当時の主治医は割と強い薬を出すのに抵抗がなかった。

私は当時は何もよく分からず
知ろうともせずに飲んでいた。

カウンセリングは料金が高く、
傷病手当のお金で工面するのにきつくなり
逃げるように辞めてしまった。
それっきり、カウンセリングは受けていない。

薬を飲みながら、仕事をしていて
前触れも無く当日になって布団からも動けない日が何回かあった。

電話もすることも出来ずに眠りこけてしまうことも、あった。

その時は先輩と心理の専門職の方が自宅まで来た。
来させてしまった。

そして、「〇〇ちゃんの緊急連絡先がないのもあり、心配で来た」
とあり
流石にもうそれはないようにした。

心配はかけさせたくはなかった。



産業医からは
「1年をかけて、1年以内には通常のシフト・夜勤が出来る体制に戻れるように」と、復職するタイミングで話があった。


私は、シフトに関しては連勤を増やしてみたり、
夜勤に関しては月1回をとりあえずやってみたり、
それを2回に増やしてみたり。

月ごとに上司と相談しつつやっていった。

一応、目標に向かって動いてはいた。
けれど、どうしても身体が着いていかずに
休んでしまう日もあった。

洗顔して、コンタクトを付けて
着替えて、食事をとるところで
胸がギューってつっかえて食べられなくなるんだ。

玄関前で靴が履けなくて
そこから動けなくなって

職場に電話をするのも嫌で
でも電話をいれて。


その度に
「どうして自分はこんなにダメなんだろう。」
「同僚は出来ているのに。」
「迷惑ばっか掛けてしまって申し訳ない。」

そういう思考に陥った。



でも、
私は人を頼っても良いことを知った。

私が無理をしてでも出勤した時に、

お子さんを持っている先輩の方は
特に洞察力が鋭く、
私の表情や声色から
私の状態をすぐに察してくれた。

私はそれがとても有難かった。

私は、段々と周りにヘルプを出せるようになってきた。


前までは、
管理職によく「大丈夫?」と聞かれた時は
反射的に「大丈夫です」と言っていた。

でも。ある時からそれを辞めた。
「大丈夫?」と聞かれて

「だいじょばないです。」
そう言うようにした。

それでも、その聞いてきた管理職の人は何も声も掛けずに、何も動こうともしなかった。


私は、無理な時は上司に素直に言った。
「今日、泊まれそうにもありません(夜勤)」

上司はすぐに動いてくれた。

帰らせて貰えることになった時もあった。


夜勤のみで子ども達が寝た後で出勤し、
次の日は朝から実働8時間やらせてもらう日もあった。


結論を言うと、
私はこの1年で産業医の言っていた
‘‘元の通常の勤務体制‘‘に戻ることが出来なかった。

プライベートでは、お付き合いをするに至った男性と出会った。

最初は、上手くやっていたし
それなりに仕事だけではなく、プライベートも充実していた。

結婚を見据えての、お付き合いだった。



そして4年目。

また職員の体制が変わり、グループ長が他のグループに異動してしまった。
先輩も2人目のお子さんができ、産休に入った。

私の所属するグループの長は、
私の1つ下の後輩の男性が務める事になった。

私は、精神的に勤務体制が整えることが出来ずに
グループ長になれなかったから。

その後輩が長に。
強制的に、突然に為らざるを得なくなって
その為の指導ややり方等を、その後輩は受けることが出来ないままそうなってしまった為、

私は後輩の右腕として、サポートに尽くそうと決めていた。

でも。
私の身に大きなことが起こってしまい、
それすらも出来なくなってしまった。

その時の詳細は、
以下のマガジンにまとめている。



次に更新する記事は、
上記のマガジンのその後のお話。

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