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そう成るべくして、こう成った

私は幼少期から何を言っても、言わなくても。
どんな表情をしていても、殴られる環境に居た。

だから自分の頭の中の思考がぐるぐる回り続けた。

文字が書けるようになってから、
それを紙に書き殴るようになった。

そうやって生きてきた。
だから、
どうしても人の顔色を窺ったり
「これを言ったらどう思われるだろうか?」
「これを言ったら何をされるだろうか?」

そして、何も言えなくなってしまいこんでは
紙に書き殴っていた。

両親に言えたとて、理解しようともせず
真っ向に否定され続けた。

だから、言うことを諦めた。
本心を言うことを諦めた。
本心を隠すことを決めた。

罵詈雑言言われても、最初は胸に穴が空いていくような感覚がした。
それに耐えられなくて、
私は聞かないように、面と向かってはいても
片方の耳から、もう片方の耳へと言葉を流していくようになった。

全ての言葉を受け止めたら、
自分の精神が保てないことを気付かずに理解していたから。


ーーそう成るべくして、こう成った。



私の母親はフィリピン人で、
タガログ語でよく友人と通話していた。

タガログ語は日本人からすると
語気が強く・荒く
感じる。

少なくとも私はそう思っていた。ずっと。

それが当たり前だった。
自分の中での当たり前の世界だった。

母親は感情が昂るとよく
タガログ語が出てきて、
私は強い語気に晒され続けた。

ずっと晒され続けた。

それが当たり前の世界にいた私は、

語気が強い・荒い
他者から見ると‘‘冷たい‘‘ようで
よく、そう言われるようになった。


ーーそう成るべくして、こう成った。




私は様々な事情で小学校だけでも2回転校した。

いじめ・はぶられ・菌回し・陰口

他者の不幸自慢

私からすれば全て、
ただのくだらないことに過ぎない話。
でも、当人からすればそれが悩みになる
不幸話として話す、
当人に達にとっては当たり前の世界。

私は聞くだけに留めて、
内心はどす黒い感情で覆われた。

私の生きている
私の中での当たり前の世界とは
あまりにもかけ離れ過ぎていて。

だから、親友を作らなかった。

上辺だけの
その場だけのトモダチ。

ーーそう成るべくして、こう成った。





私の母は、私が幼少期の頃から
よく

「あんたなんか産むんじゃなかった」
「なんであんな人と結婚したんだろう」
「あなたは父親にそっくり」
「子どもが居なければすぐ離婚出来るのに」

と口にいた。

そんな言葉に晒される毎日だった。

自己肯定感を感じ取れるような声掛けは無かった。
逆に、どんどん下がっていった。

自分で自己を肯定することを学べなかった私は
他者に助けの手を差し伸べることで
自分の存在意義を見出すようになった。

自分は、ここに居ていいのだと。
私は必要とされて良いのだと。

そう自分では無意識的に、
自己を肯定するための行動をとっていた。



ー更に、母は
私に問いかけるようになった。

「ねぇ、離婚した方が良いと思う?」
「離婚してもやっていけると思う?」
「〇〇はママとパパどっちについていく?」

それが延々と続いた。

私はある時、
自分の中で何かがプツンと切れた。

『そんなに言うんだったらさっさと離婚したら良いじゃん!!』

そう、叫んで
自室に篭った。


結局は、弟を守りたいが故に
「弟は必ず連れていく」
と言う母の方に着いて行ったのだが。

でも。
何となく、私が‘‘そう言った‘‘から
そうすべきなのでは、
母の方に着いて行かなければ
と思った。


私は、全て自分の人生は自分で決めてきた。

行きたい高校
やりたいこと
その為にすべきこと
進路決定
奨学金申請
入学金免除の小論文
就職先
引っ越し
自立


だから。
私は他責で自分で物事を決められない人が嫌いだ。
何でも、他の人の意見に流されて
自分の本当にしたいことを見ようともしない人が苦手だ。

他者の言うとおりにして失敗したら、
他責にする人は、尚、嫌いだ。

ーーそう成るべくして、こう成った。



小学生の頃から、
学校で出される保護者向けのプリントを母親に渡すと

「漢字が分からないから読んで」
と言われ、読み上げ

「ここの、意味が分からない。この単語の意味は何?」
に一々説明した。

挙句の果てには、
「どうして日本だとこういうシステムなの?」
と説明を求められた。

母親はそもそもの日本の学校のシステムに理解を示そうともしなかったから。


面倒くさくなった私は、
プリントを見せずに自分で理解し、
分からないところはパソコンで調べたうえで
勝手にサインと印鑑を押して提出していた。

自分のことは全て自分でやるようになった。


母親の作るご飯も、とてもじゃないけど
美味しい物とは言えず
それでも作ってくれることは有難かった。

作れるようになってからは、
自分で作るようになった。

洗濯も掃除も全て自分でやった。

母親はフィリピンの文化的にも
母親の性格的にも床はジャリジャリとするし
足の踏み場もないくらい家の中は物で散乱していたから。

自分の空間は自分で作った。

ーーそう成るべくして、こう成った。




高校の通学中に、電車内でよく痴漢に遭った。

でも、怖くて声も出せない
身動きもとれない
誰も、助けてくれない。
誰も、気付いてくれない。

野外でも、痴漢犯に追いかけられ、
ドアに押さえつけられ蹂躙された。

警察に行っても
自分を守る術すらも教えられず、
ただパトロールを強化する、とだけあった。

しかし、その後パトロールをしているらしき姿を見ることは無かった。

私は段々と、外では目つきが鋭くなり
辺りを見回し、周囲を威嚇して
それでも
痴漢してくる奴の手を思いっきりつねっていった。


周囲を威圧することが
私の普段の態度を大きくしていった。
身長が低いからって、
性別が女性であるからって、
顔が幼く見えるからって、

それを薙ぎ払うかのように
誰も寄り付かないように
ピリピリとした空気を
常に纏うようになった。

ーーそう成るべくして、こう成った。




高校3年生の時に、とあるきっかけで母親からの虐待が凄まじかった。

私は叫んだ。
「あの時、あんたなんか産むんじゃなかったって言ったじゃないか!」

母親はその事すら覚えてなかった。
「そんな事、言ってない。」

ただ、それだけ。

私はNPO法人に助けを求めて家を飛び出し、
一時的に教会で匿ってもらい
児童養護施設に行くために児童相談所に行くか
シェルターに行くかの2択を迫られた。

私はシェルターを選択した。

家賃・水光熱全て自分で払った。
高校に通学するまでのお金も自分で工面した。

もう、その時は何も困ることなく
1人で自炊して生活することが出来ていた。

とりあえずで出た私は長期間になると思わず
季節が移ろい、
服を取りに母親の家に行った。

私は家にすら入れて貰えず、
母は私の荷物を全て放り出した。

ボトボトと落とされていく私の物たちを
呆然と見ることしか出来なかった。

そして思った。
私は独りなのだと。

独りで何とか生きていかなくてはいけないのだと。
絶望した。
最早、涙すら出なかった。

今となっては血の繋がりなんて
私にとっては足枷でしかない。
私は、ずっと遮断機を降ろし続ける。

家族とは?家庭とは?親とは?保護者とは?
私は独りだと感じた。



ーーそう成るべくして、こう成った。



恋愛関係でも、
浮気をされ、それを言及したら逆切れされ

「愛は人に求めるものじゃない。」
「私の成育歴は関係ない。」

そう言われた。

その時の私はまだ自立できるほどの年齢的にも達していなく弱かった。

だから、自分の居場所の為に
私は自分で自分のことを堕とした。

結局、私は自立してから
別れを選択した。6年の付き合いだった。


その後、私の顔だけで
上っ面の仮面の部分だけを見て
寄ってくる人は沢山居た。

口先だけで、すぐに離れていく
そんな人ばっかり見てきた。
私の内面を少し見ただけで、理解しようともせずに
離れていく。

だから私は仮面を被って
夜の居場所を求めて、自分の身体を差し出した。
一度限りの即席の愛。
遺るのは、いつも虚無感。


基本的に人は信じない。
一番怖いのは、ヒト。



ーーそう成るべくして、こう成った。



別の人には、甘やかされ
でもその人には決まった人が居て。

それでも私は救われた。
その時間に後悔はない
もう恨みもしていない。

けれど、結局離れることになった。
と、いうより私がそう選択せざるを得なかった。
私から7回も告白するなんて初めてだった。
それでも、届かなかった。

忘れたくて
全て消した。
何もかも。

未練が残らないように
連絡を自分からも相手からもとれないように
ブロックして、それも完全に削除した。

そうやって、私は人に感情が
本格的に入れ込む前に
自分から断ち切るようになった。
傷つくことが分かっているから。


気持ちが大きくなればなるほど、
反動が大きい。

もう。誰かを大切にして、
離れられていくことが嫌なんだ。

それだったら、もう。
今までのように1人で居たいんだ。

‘‘絶対的な安心感‘‘の確証がないと。
もう、怖くて足が竦むんだ。

だから、そうなる前に切ってしまうんだ。




ーーそう成るべくして、こう成った。



バイト先の『店長』は
店長らしいことは何もせず
何なら悪いことをこそこそしたり、
怠惰をしたり
アルバイトの子を顎で使っていた。

そんな事が私は許せなくて。
私は自分で店を、アルバイトの子達を含めて
店舗が回るようにしてきた。

自分もアルバイトの立場ではあったけど、
『店長』にしか出来ない仕事以外は全部覚えて、やった。

初めから完璧になんて出来ない。
それは自身で勉強したり、教えてもらい吸収し、
時には他店舗の店長のところに出向いたり、電話をして
話を聞いてきた。

発注・教育・〆作業・他店舗とのやり取り・クレーム対応

全部、やってきた。
クレーム対応も模索しつつ、お客様の反応や
クレーム内容によってどこまでの対応をするのか自分で決めてきた。

その時は、
やってくれる人が居なかったから

前にそういうことをやってくれていた先輩のことを思い出しながらやった。

アルバイトの子の顔色を見て
時には連れ出して話を聞いたり
受容・共感・代弁をするようになった。
勤務時間の調整もやった。


自分に何が出来るか
こうしたらもっと上手くいくんじゃないか
そう常に考えながら‘‘仕事‘‘をしていた。

こんな事のせいで人が辞めてしまわないように。

常に場を俯瞰して見るようになり、
その人・その人
をよく観察していた。

何かに困っていたらすぐに分かるし、
行動の先読みをすることが出来た。

「なんで分かるんですか?」
そうよく言われた。

分かるよ。
私はいつも、貴方達を遠くからでも見ているし
声や音で何をしているのか分かるし、
自分のこれまでの経験も踏まえた上で
何に困っているのか、察知できるから。


時にはキツく叱ることもあった。
バイトに対する姿勢、
対価として金銭を受け取ることの意味。
やっていいことと、悪いことの線引きに関して。

勿論、融通はきかせていたつもり。
頑張っている子には相応のモノを。
こっそりやっていた。
私なりの線引きで。

「アルバイトなんて所詮、」
という気持ちも分かる。

けれど、私は同じ時給で働いている子がその姿勢でいることが嫌だった。

だから、私は常に自分のやりたいように、
出来ることを探して清掃などをこまめにやっていた。
時給制度が故に。


そんなこんなやっていたら、
「姐さん」
そう後輩達に呼ばれるようになった。

何でも、何か聞くときには『店長』ではなく、私に先に聞いてくるようになった。


『店長』に対しても態度が大きい私を見て、
実際の身長を聞かれて答えると

「えっ!?そんなに小さかったんですか!?」

と驚かれることはザラにあった。


もう、この時には

ーーそう成るべくして、こう成っていたから。



堕胎に関連する経験から、命の尊さや
男性との考え方のズレ
実年齢と精神年齢の違い
その人それぞれの価値観の違いを
痛いほどによく知った。

男女の差。
どうしても埋められないもの。
力の差
人は簡単に変えられないこと。
分かり合えないところ。

でも、寄り添おうと、分かろうとする姿勢すら
持てない人間がいることを

身をもって感じた。

更に人間不信に陥った。

私のお付き合いすることに対する怖さ
自分の素を、思っていることを言えなくなるところからそう感じた。
結婚観・母親に自分が成ろうとする段階での
私の成育歴からくる、自分の気持ちの整理

一緒にそれを考えてくれる人では無かった。

独りでやった堕胎の精神的・肉体的ダメージは
計り知れるものではなかった。

誰も。立ち会うことも、迎えに来てくれることは無かった。
独り。暗い部屋に1人で帰ってきた。

もう、2度とこんな事したくない。

「死ぬときは一緒だから。」
その約束を守ることが出来なかった。

でも。
私の心の中で、私の子は生き続けている。
私が生き続ける限り。

だから、私はその分
前を見て歩き続ける。


ーーそう成るべくして、こう成った。



私の全て。

そう成るべくして、こう成ったのは
全て私の踏ん張って生きてきた証。

私は自分の中での強い『信念』を持っている。

時には頑固だとか
キツイだとか、
冷たいと言われることも少なくない。

けど私は、
私だけは自分を否定したくない。

私まで自己を否定してしまうと
これまでの私の選択してきたこと、


そう成るべくして、こう成った私の‘‘強み‘‘

が無くなって、消えてしまいそうだから。


だから、私は常に
強いけど細い糸がピンと張り詰めている。

いつかは、この糸が緩められる時がくるだろうか

その時に、傍に居てくれる人は
いるだろうか。


そんな遠い未来のことを考えながら
今、この時を
一瞬一瞬を懸命に必死にもがいて
生きている。


『死ぬこと以外全部かすり傷』
そう思って生きている。

痛みや辛さの感覚なんて、
もうとっくに麻痺している。

縫うほどの大怪我をしても、
病院に行かなくても平気なくらい。

流石に出血が止まらなくて、
医者にかかった。
「来るのが遅い。もう縫えない。」
と言われてしまったが。

それぐらい、私の痛みの感覚は
麻痺している。
バグっている。


いつかは、些細なことでも
‘‘痛い‘‘
そう、感じられるだろうか。



私は、産まれた時からアルティメットモードだった事に気付いた。

何故?私は周りと比較しては

‘‘なんで私はこんなに…‘‘
と何度も思った。
それを繰り返していくうちに、
私の置かれてきた環境が異常なことに気付いた。
‘‘当たり前じゃない世界‘‘ということに気付いた。

ーーでも。私はそれを 
‘‘強み‘‘に変えてきたと思っている。

だって、今ここに立って生きているから。

何度膝をつくことがあっても、壁にぶち当たっても


今、私は此処に生きているから。




『強い人』って何だろう?
一括りに``強い``と言っても、色々な側面があると思っている。

私は、この‘‘強み‘‘を活かして
やりたいことを、
これからも、これまでと同じように
自分で選択してやっていきたい。

そうやって、生きていきたい。



私は、そう成るべくして、こう成った。


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