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第10号(2018年10月26日) ロシアのINF条約違反


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【質問箱】ロシアのINF条約違反はなんのため?

●今週の質問
 ロシアンロケットおじさんこと小泉先生に質問です。アメリカのINF条約破棄の原因を作ったロシアですが、SSC8対地巡航ミサイルは一体何のつもりだったのでしょうか?
 ロシアはINF条約の消滅を願っていたが自分からは破棄を表明したくないのでアメリカから破棄させるように仕向ける為の道具としてSSC8が作られたのか、それとも単にこれくらいならINF条約でも見逃してくれるだろうとチキンレースを仕掛けるための探索棒としてSSC8が作られて豪快に失敗したのか、どっちだったのでしょうか?
 ロシアの狙い通りだったのか予定外だったのか、よく分からないのです。

 今、世の中はINF脱退の話題で持ちきり、と思いきや普通の人からは「なにそれ」という反応が返ってくるので、自分の見えている「世の中」って狭いな、という認識を新たにしている今日この頃です。
 さて、ご質問は、何故ロシアがINF違反のミサイルなど開発したのかということですね。結論から言いますと、私もまだ納得の行く説明をひねり出せずにいます。が、事実関係のまとめと頭の体操をしておくにはいい機会かと思い、今回のメルマガで取り上げさせていただきました。

 INF条約の正式名称は、「中・短射程ミサイルの破棄に関するアメリカ合衆国及びソビエト連邦間の条約」といい、1987年12月8日に締結されました。
「中・短射程」という名称から明らかなように、同条約はソ連のRSD-10ピオネールや米国のパーシングIIといった中距離弾道ミサイル(IRBM)だけでなく、それより射程の短いSRBM(短距離弾道ミサイル)を制限範囲に含んでいます。この制限は弾頭が核であるか否かに関係なく適用されるため、以上に該当するミサイルはすべて対象です。
これらが冷戦期の欧州においてどのような役割を果たし、何故懸念されていたのかについては、NEW BOOKSのコーナーで紹介した岡崎研究所の村野研究員の論考を参照願いたいと思います。
 画期的であったのは、この条約が「ゼロ・オプション」、つまりINFの全廃を規定していた点です。あるカテゴリーの核運搬手段を(制限・削減でなく)全廃するという合意が成立したのは、米ソ(露)間ではこれが最初で最後です。
 INF条約では、対象となるミサイルのうち射程500-1000kmのものを短射程INF(SRINF)、1000-5500kmのものを長射程INF(LRINF)として区別し、前者は条約発効後18ヶ月以内、後者は36ヶ月以内に廃棄することが規定されました。条約は1988年6月に発効し、1991年6月までにすべてのINF相当ミサイルが廃棄されましたが、その数は実に2692基(ソ連側1846基、米側846基)に及びます。

 ところが条約締結から20年後の2007年、ロシアはINFに対する反発の声を上げ始めます。
 口火を切ったのはプーチン大統領で、2007年2月10日、ミュンヘンにおける国際安全保障サミットで次のように述べています。

「ロシアは核不拡散条約(NPT)及び多国間ミサイル技術拡散防止レジーム(MTCR)を厳格に順守し、今後とも遵守していく意向です。これらの文書の原則は、普遍的な性質を有しています。
 これに関して想起していただきたいのは、ソ連邦と米国が1980年代に締結したINF条約のことです。この文書には普遍原則は盛り込まれませんでした。
 今日では、多くの国々がこのようなミサイルを保有しています。北朝鮮、韓国、インド、イラン、パキスタン、イスラエルがそうです。さらに世界の多くの国々がこうしたシステムを開発し、配備しようとしています。当該の兵器システムを禁じられているのは、米国とロシアだけなのです」

 プーチン大統領がこのような指摘を行った背景には、米露の地政学的な立ち位置の相違があります。米国は仮想敵の全てと大洋を隔てていますが、ユーラシアの大陸国家であるロシアでは事情が全く異なり、これら新興ミサイル保有国の射程に入ってしまうためです(ところがここには中国の名前が挙げられておらず、昨今の中露関係を考えるとなんとも意味深なのですが、この点については別の機会に回します)。
また、プーチン大統領のミュンヘン演説後には当時のバルエフスキー参謀総長もINF脱退を支持する発言を行っており、軍内部にも反INF論はあったのでしょう。

 ただ、ミュンヘン演説は俗に「新冷戦」演説とも呼ばれ、冷戦後のロシアが抱いてきた不満をプーチン大統領が洗いざらいぶちまけるような内容でした。したがって、個々のトピックが当時のロシアにとってどこまで切迫性を持っていたかはまた別に考える必要があるでしょう。
つまり、米露だけがINFを保有できないという状況が、実際にどの程度ロシアの安全保障を制約していると考えられていたのか。また、そうした状況への対処としてINF脱退が最適解と考えられていたのかどうか、ということです。
たとえば2017年10月、ロシアは米国とともにINFによる規制を第三国にも広げるべきであるとした共同声明を第62回国連総会に提出しています。これ自体はほとんど顧みられることなく終わりましたが、まずはINF条約の枠組みを破壊するのではなく広げようとロシアが試みたこと自体は無視できないと思います。
 しかも、ロシアの安全保障コミュニティの中では、INF条約は高く評価されてきました。ソ連のINFは米国には届かず欧州にだけ届くことで米欧分断の危機をもたらしましたが、米国がこれに対抗して独自のINFを配備し始めると、今度は逆の現象が発生したからです。欧州正面で米ソがINF配備競争を展開した場合、モスクワに届く核弾頭は増え続けるがワシントンに届く核弾頭の数には変化はない、というのがそれです。これはソ連の脆弱性だけが一方的に高まることを意味しています。
 したがって、INFで欧州を恫喝する能力の放棄と引き換えにソ連(ロシア)の脆弱性が低下するならば悪くない取引だ、という考え方も成り立ちます。実際、ロシアの著名な核戦略家の多くはこうした理由でINF条約維持に肯定的でした。

 ところが2010年代に入ると、ロシアが密かにINF違反のミサイル開発を進めていたことがわかってきます。2014年7月28日付『ニューヨーク・タイムズ』紙が米政府関係者の話として報じたところによると、ロシアは2008年からこうしたミサイルの発射試験を実施していたということなので、ミュンヘンでのプーチン演説の時点ではすでに具体的な開発作業も実施されていた筈です。
 また、この記事によると、米政府は2011年末までにロシアがINF条約に違反している恐れがあるとの結論を出していたとされます。2012年11月27日に米上院軍事委員会で開催された秘密公聴会では、ジョン・ケリー委員長に対し、米国務省のゴッテモラー国務次官補とクリードン国防次官補がロシアのINF条約違反疑惑について報告を行ったとされるほか、2014年版の米国務省軍備管理遵守レポートではこの問題が初めて記載されました。
 さらに同レポートの2015年版では、問題のミサイルが地上発射巡航ミサイル(GLCM)であると初めて特定されました。ロシアが開発していた小型ICBMのRS-26ルベーシュが実質的にIRBMではないかと疑う声もあったのですが、これで焦点はひとまずGLCMに絞られたことになります。
 そして2017年版では、問題のGLCMの名称が9M729(NATO名:SSC-8)であることが明らかにされました。それまではロシアの9K720イスカンデル-M戦術ミサイル・システムから発射される9M728/R-500(NATO名:SSC-7)が問題のミサイルではないかとも言われていましたが、2017年版レポートは9M729/SSC-8が9M728/SSC-7とは別物であると明記されています。

 すると9M729とはなんなのかという点が気になってきますが、おそらくは海軍用の3M14カリブル巡航ミサイルをGLCM化したものであろうというのが大方の予測です。3M14の射程は1500-2000kmくらいと見られているので、これをGLCM化すれば条約違反なのは明らかでしょう。
 これについては当初、ロシアの「違反」はごくテクニカルなものに過ぎないのではないかという見方もありました。INF条約第7条11項では、通常のGLCM発射システムとは区別可能で、もっぱらテスト目的のみに用いられる固定型地上発射装置を用いれば、海上発射巡航ミサイル(SLCM)や空中発射巡航ミサイル(ALCM)の発射試験を地上から行ってもよいとされています。
 そこで、ロシアがカリブルの発射試験を既存の移動式発射機などを使って実施したのではないかという見方が出てきたわけです。
 しかし、2014年12月に開催された上下院合同公聴会において、ブライアン・マケオン国防次官補は、このままロシアが強硬な核戦力整備を続けるのであれば、米国も欧州にGLCMを配備することになろうと述べています。トランプ政権も2018年の核態勢見直し(NPR)において、ロシアのINF条約違反への対抗措置として新型SLCMを配備するとの方針を示し、ついに今回の脱退に至っています。
 明らかにミサイルのテスト方法などという軽微な問題ではない、より重大な違反が行われているというのが米側の認識であると考えるのが妥当でしょう。

 ちなみにロシア側は9M729というミサイルの存在については認めているものの、「条約違反の射程で発射試験を行ったことはない」(リャプコフ外務次官、2018年10月3日)という立場です。
 また、実際にロシアはINF条約に違反しないように射程を抑えて9M729の試験を行っているようだという報道もあります(Bill Gertz, “Russia Again Flight Tests Illegal INF Cruise Missile,” The Washington Free Beacon, 2015.9.28.)。
 しかし、INF条約の第7条第4項によると、条約締結時点で存在していない(つまり将来出現する)GLCMの射程は、「当該ミサイルの標準設計形態において燃料が枯渇するまで飛行した場合の発射地点から落下地点までの飛行経路を地球の表面上に投影した場合の最大距離と見なす」とされています。
これに基づけば、技術的に見て9M729が「標準設計形態において燃料が枯渇するまで飛行した場合」には射程500kmを超えるはずだ、というクレーム自体は正当化しうるものでしょう。重要なのは、ロシアが実際に500kmを超えて飛行できるGLCMを開発しているらしい、ということです。

 ではそれが何のためなのか。これは冒頭でも触れたとおり、私もまだ悩んでいるところです。
 今やロシアは爆撃機発射型のKh-55SM、Kh-555、Kh-101/102の各種ALCMを保有し、新型艦艇の大部分は3M14カリブルの運用能力を持つようになっています。条約違反などせずとも十分に中距離核攻撃能力を発揮することはできますし、実際にシリア攻撃ではこれらのミサイルが通常弾頭モードで使用されました。細かいことを言えばキリはないですが、概ねGLCMの不在はカバーできていると言ってよいと思います。
 また、ロシアが少なくとも2000年代の半ば頃からGLCMの開発を進めているのだとすると、この間に国際環境が相当変化したにもかかわらず、ロシアはGLCM開発を止めなかった(あるいは中断したがまた再開した)ことになります。そこまでロシアがGLCMにこだわる合理的な理由はなかなか見当たりません。

 今回、トランプ大統領が表明したINF条約からの脱退が実現した場合、ロシア側は対抗措置を取るとしています。もしかすると、これまで秘密にされていた9M729の正体がいよいよ明らかにされるのかもしれません。とはいえ、そのときはINF条約が完全に「終わり」を迎えることになるわけで、あまり喜ばしい話ではないのですが。

関連記事


【NEW BOOKS】村野将「なぜトランプ政権はINF条約破棄表明に至ったのか」 ほか

・村野将「なぜトランプ政権はINF条約破棄表明に至ったのか」『Wedge Infinity』2018年10月22日 


・村野将「「INF条約破棄で中国に対抗」は可能か?日本への様々な影響」『Wedge Infinity』2018年10月24日 

・Congressional Research Service, Russian Compliance with the Intermediate Range Nuclear Forces (INF) Treaty: Background and Issues for Congress, 2018.10.5. 

 トランプ大統領のINF脱退発言と前後して、この問題を理解する上での優れた参考資料が幾つか出てきました。最初に挙げた2本は岡崎研究所の村野さんによるもので、今のところ日本語で読める最良のものだと思います。
 3つ目は米国議会調査局(CRS)が発行しているINF問題についてのレポートですが、奇しくもその最新版が今回の脱退表明の直前に公表されました。これまでの経緯が詳細にまとまっており、INF問題を論じる上での基本参考文献の一つと言えるでしょう。


【編集後記】減らない、腹肉

 僕の妻はロシア人なんですが、先週の日曜日から妻のお母さんが我が家に泊まっているため、家庭内標準語がロシア語になっています。僕のロシア語は主に資料を読むためのもので会話は苦手ですから、こうなるとなかなか弱るんです。
 妻とお母さんがネイティブ・ロシア語スピーカーなのはもちろん、娘も準ネイティブですから、家庭内で一番たどたどしいのが僕ということになる訳です。とはいえ帰宅すると家庭内環境がロシア語というのはそれなりに勉強になるのもたしかで、資料を読んでいるだけではまずお目にかからない単語や表現を結構覚えられたりもします。

 閑話休題。
 今週は静岡に行ってきました。静岡県立大学教授で軍事アナリストとして知られる小川和久先生が公開講座の講師としてお招きくださったのですが、結構遠くからも聴きに来てくれた方が多く(メルマガを読んでくれている方も)、ありがたい限りです。
 その後、静岡から新幹線で都内に戻り、会議に出てからニコ生の「国際政治チャンネル」に出演させていただきました。こちらは軍事評論家の岡部先生とマルチタレントの小山ひかるさんという組み合わせで、どうもどこかで見たことのある顔ぶれですね。今後もこのメンバーで隔月くらいでやっていこうという話になっていますので、皆様どうか一つ宜しくお願い致します。

 ちなみに「国際政治チャンネル」の収録スタジオは築地本願寺の近くにあるんですが、日比谷で用事を済ませてから歩いて行ったら30分くらいで着いてしまいました。都心て意外と狭くて、ちょっとした散歩がてらに歩けてしまったりもするんですよね。
 ついでに腹肉も多少減らないものかと思ってなるべく歩いているんですが、こっちのほうは一向に成果が上がりません。
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【発行者】
小泉悠(軍事アナリスト)
Twitter:@CCCP1917

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