惜別野球人【糸井嘉男、能見篤史篇】

 福留孝介に続き、平成末期の阪神を支えた2人が引退を発表した。それぞれ晩年は代打の切り札、救援と全盛期の活躍はなかったものの、不惑となってからもここ一番の勝負強さは光るものがあった。今回は、そんな2人にハイライトを当て、前回同様に思い出に浸ろうと思う。

「パテレ」で見た衝撃の身体能力

 この選手はパリーグ公式のYouTubeチャンネルで日ハム、オリックス時代の映像を見ていて、その突出した身体能力からうまれる大リーガーのような守備、走塁はいつか球場で彼のプレーを見たいと思っていたので、阪神に移籍した時は素直に嬉しいという気持ちであった。残念ながら、30代後半で50もの盗塁を記録した為に勤続疲労が祟ったのか、阪神時代ではレギュラー選手としての活躍は数年間しか出来なかったが、それでも外野からの本塁送球は凄まじいものだったことを鮮明に覚えている。

 僕は残念ながら、イチローを生で見たことがない世代なので「レーザービーム」と言ったら糸井が英智である。糸井が引退したことにより、阪神の最年長は仁保旭の32歳。城島健司や西岡剛がいた頃の、オジサン軍団といった感じの阪神はすっかりとフレッシュなチームとなった。

「阪神の能見」の最後に泣いた思い出

 恥ずかしながら、僕は涙脆いのですぐ引退試合を見ると泣いてしまう。浅尾拓也、岩瀬仁紀の引退試合でも、昨季の木下雄介の追悼試合でも涙無しでは見られなかったが、他球団の引退試合で泣いたのは能見篤史のただ1人だけだ。

 遡ること平成30年、コロナ禍に陥る前の話になる。当時の能見は、先発失格の烙印を押されてしまい、すっかりと大差のついた試合で短い回を投げるという救援投手となってしまっていた。阪神という関西1の人気球団であれば、これだけでも心が折れてしまうが能見はひたむきに好投を続け、抑えの投手の前を投げるセットアッパーまで上り詰め、2年間にわたり重役を全うした。その後、コロナ禍による変則日程の影響か、令和2年には能見本来の投球がなくなっていた。綺麗なフォークボールの制球はなく、信条のクロスファイアは甘く入り痛打を食らうことが続き、ナゴヤドームで中日のアルモンテに満塁弾を浴びたと同時に「阪神・能見」が終わったと思った。

 その後、戦力外。「阪神の能見」としての引退試合は抑えのシュチュエーションであった。コロナ禍で禁止されていたが、阪神ファンの「あと1人!」の大合唱の中、先発失格と共に封印していたはずの美しいワインドアップ・モーションを3年ぶりにとった時に不覚にも泣いてしまった。それは何か、彼自身の中でケジメをつけているように見えたからだ。

 その後、オリックスへと移籍するとここ一番の火消し役として優勝に貢献。同じ関西とはいえ、セの阪神からパのオリックスへと移籍することは巨人から西武へと移籍した内海哲也同様にモチベーションの問題があったのではないか。2人とも、移籍先でも腐るどころか、コーチを兼任したことは野球人として素晴らしいことだろう。全盛期の活躍は出来なくとも、それ以上の貢献をしたと言っていいだろう。

最後に

 平成を彩ったスターの引退は悲しいが、今後指導者としての活躍を期待している。


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