【ストロベリー狂詩曲】04
* チサカ視点 *
覚えてくれていたこと、嬉しかった。そうやって素直に想いを告げれば、あなたの期待に添えるかもしれない反面、距離が縮まった途端に幻滅させてしまわないか不安でもあった。
「チサ、あの子が例の?」
「うん」
トイレの側にある曲がり角でスマホを弄っていた杏里は、彼と私の会話を一部始終立ち聞きしていた。わざとではなく、彼女は私がトイレから出て来るのを静かに待っていただけである。こんな時は空気を読んで茶化さずに居てくれる。
彼が非常口のドアを開けて出て行ったのを確認してから、私と杏里も同じ方向へ歩き出す。
杏里はスマホをマナーモードに切り替えてスカートのポケットに突っ込み、トーンダウンした表情でおもむろに言う。
「学校生活と芸能界の両立って難しいよね。アタシの場合、初めはアイドルになった自惚れも生じて、言われた通りに秘密主義を守ることがとっても楽しかった」
「一種の快楽?」
「そう、それ。でもねー、中学に入ると知り合う子たちが増えるでしょ?事務所からプライベートの交友関係に口を出され始めて、段々好きに遊べなくなっちゃったのが残念。自分で憧れの夢を掴んだ癖に、息苦しさを感じるのは自傷とか、自害に似てると思うの」
スポットライトを浴びる恍惚と引き換えに制限される、他愛のないおしゃべりと行動の自由。それでもこの仕事が好き、やりたいという相反する矛盾を抱えている。
「チサはSNSの使用、テレビ出演、雑誌のインタビューは一切お断り。人気モデルを束縛するなんて、社長さんドSだよ」
「私は処遇に感謝してる」
「もぉっ、卑屈過ぎぃーー」
人前で笑うことが難しい私の不器用な性格を事務所側が考慮し、素性を非公開にすることでモデルとしての価値を上げ、雑誌とファッションショーだけに専念させている。下手に喋ってファンを幻滅させるぐらいなら黙っているほうが安全との結論に至ったのだ。
一年生が一堂に会する体育館へ戻り着席すると、一分後にチャイムが鳴って対面式が始まった。冒頭は音楽科の代表メンバーによるお膳立て。入学を祝す演奏の披露だ。男の子三人と女の子三人が舞台に上がり、それぞれがヴァイオリンやチェロなどの弦楽器を手にし、先ほど再会したばかりの川嶋忍くんはピアノの前に向かう。
進行役の教頭が白い紙を見ながらマイクを握って作曲者の名前と曲名を読む。
バッハ『G線上のアリア』。
誰もが一度は聴いたことがある名曲で、平和を尊ぶ、緩やかな音色が体育館全体に響いた。
(……傷付けて……、ごめんなさい)
心の中で呟いた謝罪はあなたに届かない。誰にも、この悲痛な声は聴こえない。
一日の授業を終えた夕方の下校時間、ホームルームが終わってスマホの電源をオンにしたら、デフォルトの着信メロディが鳴り出す。
「もしもし」
『お疲れ様。新しく入った仕事の話をこれからしたいの。事務所に来て』
発信者はハキハキした声の時田<ときた>さん。働き盛りの三十一歳で二児の母親。私が小学六年生の時に就いたマネージャーだ。
「PV?」
「クラシック界で今話題になっている男性ユニットの初PVにあなたを出演させたいとの依頼が入ったの。JPOPのメジャーなアイドルやグループと違って、事務所も依頼主も大々的な番宣はやらない。安心して!」
事務所の狭い一室で聞かされ、予想外の内容にぽかんと口を開ける。演技がド素人の私に、大船に乗ったつもりで居なさい的な自信が何処から湧いて来るのか、算段があってのことだと理解はしている。
「社長が、水無月ちゃんのイメージを変える良いチャンスになると思うんだ!って張り切っちゃってるの」
大阪の道頓堀にあるグミコのポーズを決めて後光を放つ、社長の愉快な姿が頭の中で浮かんだ。
「それはモデルとして限界だからですか?」
私は此処に来る途中で購入した栄養満点の野菜スムージーが入ったSサイズのカップにストローを突き刺し、単刀直入に言った。時田さんはにこにこしている。随分余裕だ。
「ステップアップの時期が訪れた、それだけよ。失敗しても痛手にならないわ。クラシックに興味を持つ人は少数派でしょう」
「上手く行くかな」
「はい、後ろ向き終了!土曜日の午前中に顔合わせの予定が入ってる。撮影用のスタジオへは送迎します、自宅で待機しててね」
痛手にならないから安心と言われたら、裏を返せば期待をしていないとも考えられる。喜ぶべきか、悲しむべきか。私はスクールバッグからシンプルな安物のボールペンと、苺の柄が表紙のスケジュール帳を開き、予定を書き留める準備に入る。
*
土曜日、時田さんが運転する事務所の車で都内のスタジオへ向かう。残っていた桜の花は昨夜降った雨に打たれて散り、水溜まりの上を走るタイヤに踏まれ続けて汚い。
どんよりと暗い鈍色が空を覆う。車内で流れる朝のラジオ番組では、テンションの低い気象予報士が午後にまた降り始める予報を出していた。今日の午後は、五月に表紙を飾るティーンズ向け雑誌の撮影が入っている。一応、傘は持って来た。
初の顔合わせでスタジオの待合室へ入ると、依頼側の撮影監督が先に到着していた。時田さんと年齢は近そうだ。
肝心のユニットは来ていない。先に、監督に挨拶を済ませる。まだ駆け出しの新米で今回のPVが初デビュー、そのこともあって私の演技が下手でも心配不要とのことだった。
約束の時間まで残り五分。ドアが開き、最初に入ってきた若い男性は、黒髪を外向きにハネさせて前髪を左で六四分けにしており、遊び慣れている感じがした。しかし、俗に言う「チャライ」とは違う。悪びれず陽気に愛想を振り撒く。
「お待たせしてすみません。朝倉充<あさくら みつる>です」
続いて、ショートとミディアムの間目ぐらいの長さで毛先が細い、さらっとした黒髪の若い男性が入ってきた。清潔感のある雰囲気だ。
「桜馬春太郎<さくらば しゅんたろう>です。よろしくお願い致します」
二人とも俳優並の端正な顔立ち。今日は軽装だけど、スーツを着たらホストに仕上がりそう。
私は時田さんの横に並び、軽く頭を下げる。
「初めまして、お世話になります。モデルの水無月チサカです」
「私はマネージャーの時田陽子と申します」
全員が名乗って着席する。監督中心に説明が始まった。
作曲家のクロード・ドビュッシーが十八歳の時に、十四歳上のヴァニエ夫人に情熱的なまでの想いを寄せ、二十歳前後に作った四十曲のうち二十七曲をプレゼントした記録が残っている。朝倉さんと桜馬さんが演奏した物を収録してアルバムにし、内、世間的に知名度の高い『月の光』を限定版の特典PVに使う。販売枚数は少なく、動画サイトへのアップは考えていない。
私をヴァニエ夫人役に抜擢した理由は、この朝倉さんと桜馬さんのファンは自分たちよりも年齢が上の奥様達が占めており、同世代の人を夫人役に持って来るのは難しい。それで、年下の子にしたいとの経緯だ。視聴した女性達が私に心理を重ねて夢見ることが理想的としている。
彼女達は教えるより教わりたい側だと朝倉さんは説いた。ドビュッシー役は桜馬さん。朝倉さんが演じるとセクシー路線になってしまうらしい。
「よし!二人ともそこに立ってくれ。桜馬くんはチサカちゃんの頬に手を添えて。うん、そのまま見つめ合ってくれるかな」
監督に指示されて壁際に移動し、向かい合わせで立つと桜馬さんの綺麗な指が私の左頬に触れる。みんなが見守る中、真摯な瞳に見つめられて緊張が高まり、私は耐え切れずものの数秒で視線を下に逸らした。
「カーット!」
桜馬さんの手が離れてホッと胸を撫で下ろす様子に監督は苦笑いを浮かべる。
「チサカちゃん、素敵な男が目の前に居るんだ。もっと、こう、ときめいてくれると嬉しいなぁ」
朝倉さんは気長い様子で笑っている。
「女子高生が二十代半ばを過ぎた野郎の良さを理解出来ないのは一般的ですって」
「うーん。じゃあ次は、チサカちゃんの好きな人が目の前にいると思ってよ。もう一回!」
また、桜馬さんの指が触れて肩が微かにびくっと震える。
目を見ながら、次はーー好きだった人の顔を思い出してみた。でも、あの頃に抱いていた感情が今は冷めていて表情が固くなり、目を合わせたまま二回目もNGを出されてしまう。合計五回チャレンジするも全部ダメだった。予想通りでも自分の不甲斐無さに不満が積もる。想いを乗せる仕事は向いていない。
「水無月さん」
失敗が続いて苦虫を噛み潰すような表情を浮かべる私に、桜馬さんが右手を差し出してきた。
「握手」
今頃?
と、変に思いつつ、言われた通りにする。
「大きいですね」
「楽器の演奏をする時に弾き易くて助かってるよ」
桜馬さんは握っていた私の手のひらを上にしてこちょこちょと擽りだした。
「やっ、やめて、くだ、さい!あはっ、あははははは!」
久々に笑うと桜馬さんがにこっと笑みを浮かべて擽るのをやめた。
(してやられた!)
手を振り払い、人前で笑ったことが恥ずかしくて顔を赤らめ、キッと睨み付けた。私を楽器に見立てて『演奏』をしたと言うのならタチが悪い。
平然としている桜馬さんは、右手を肩口まで上げて監督に話し掛ける。
「笑う練習から始めてみようと思います」
「打ち解けるまで時間掛かりそうだもんね。二人が絡むシーン以外を先に撮ろう」
「有難うございます」
勝手に話を進める桜馬さんに私はムキになって物申す。
「体をくすぐったらセクハラです」
「演技上、一度は抱き締めるよ。海外ではコミュニケーションだ。僕は慣れている」
「いっ、今は」
「日本ですって返しは通用しない。もう少し、プロ意識で頑張ってみなさい」
(嫌な感じ……!)
演技の課題とスケジュールを確認し合い、打ち合わせが終わって今日はこれでお開きとなった。先に監督と朝倉さんが退室し、桜馬さんが私の前に立って笑みを携えたまま話し掛けてきた。
「壁を作っていたら疲れるよ?」
何も知らない癖に。
反抗心を込めた目で返すと
「チサカ」
横で座っている時田さんが名前を強く呼んで注意する。私はふいっと顔を横に逸らし、唇を強く結んだ。
桜馬さんは「ひとつ、希望があります」と言って話を切り出す。
「時間がある日は、うちの生徒も交えて水無月さんにレッスン場へ来ていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「えぇ、構いませんよ。プライバシーの保護だけはお願い致します。マネージャー同伴でも……」
「水無月さんが周りに気兼ねしない環境にすることが必要だと思います」
「……、わかりました。では、スケジュールの確認をさせていただけますか?」
「はい」
月曜日の夕方、授業が終わって一度帰宅したら、指定の場所まで行くことになった。
夜、ベッドで仰向けになり、楕円形のハンドミラーを持って笑う練習をする。何度口角を上げても無理やり過ぎて変顔に映る。
私で務まるのだろうか?
(続く)
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