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【ストロベリー狂詩曲】06

「桜馬センセ、水無月のこと知ってたんスか?」
「授業中にね」

 四人の自己紹介が終わったタイミングでSサイズのビニール袋を提げた桜馬先生が帰宅し、川嶋くんの質問に短く答えるとそのままキッチンのほうへ姿を消す。私は朝倉さんに勧められ、一人掛け用のソファーに座った。

「生徒さんは、他に居ないんですか?」
「徹底的に教え込むには時間を割かなきゃならない。生憎、俺もシュンも仕事を掛け持ちしてて、これ以上は時間も肉体も限界」

 桜馬先生は長方形のトレイを運んできて、縁が金色の真っ白いティーカップに入った熱い紅茶をウェイターのような優雅な動作で一人ずつに配り、テーブルの中央へトン、トン、トンと三つの品を置いた。角砂糖を詰めた透明のガラス瓶。既に封が開いている、二百五十ミリリットル入り無調整牛乳。箱には青い字で、商品名が縦書きされたポピュラーな物だ。

(はちみつに浸したのかな)

 照明の加減でとろりと濡れた表面がテカテカしたオレンジの輪切りを五枚重ねて乗せた白い小皿に、使いやすい小型のステンレストング。全部、紅茶に入れる物だ。
 全員が揃い、ソファーで寛ぐ。

「水無月さん」

 向かい側の二葉くんに声を掛けられる。

「定越<さだこし>さん限定の、はちみつ塩オレンジ。紅茶にぴったりだよ」

 無垢な笑顔。人畜無害とは彼を表す四字熟語だ。純粋、天然、妖精、夢の国の住人、ピーターパンも連想した。高校生に思えない幼い顔立ち。
 日頃はストレートで飲むところを、今日はオレンジを一枚沈めて飲んでみた。

「美味しい」
「でしょ?」

(は。餌付けされている……?)

 私から見て右斜め前に居る桜馬先生は角砂糖をぽちゃんと一個入れ、向かい側の川嶋くんは二個入れて、添えてあったミニのスプーンでそろっとかき混ぜる。左斜め前に居る朝倉さんはオレンジを二枚沈めた。みんなの甘い香りが湯気となって鼻を掠める。茶葉の香りとシトラスが合わさり、身構えていた気分が落ち着く。
 紅茶を半分飲み終えた桜馬先生はカップをテーブルの上に置き、二人の生徒を見る。

「タケルくんは第二部屋。僕が行くまで、パガニーニ『二十四のカプリース』の自主練習」
「はい」
「忍くんには、一回だけドビュッシー『月の光』を弾いて貰う」
「仕事で弾くなら、オレより朝倉センセーのほうが上じゃん。比較されそうで嫌だな」

 不満を漏らす川嶋くんはミルクを加え、ぬるくなった紅茶を飲む。やはり、直ぐにはちみつのようにわだかまりは解けない。

「忍に繊細で色っぽい音色は難しいよね」

 気まずい空気を打ち破るが如く、二葉くんは純粋度百パーセントの笑顔で毒を吐いた。見た目によらず辛辣だ。

「弾くよ、ったく!」

 煽られた川嶋くんは投げ遣りに承諾し、ゴクゴク飲んでカップの中身を空にするとテーブルにがちゃんと音を立てて置き、スッと立ち上がってベランダに近いグランドピアノのほうへズカズカ歩く。計算通りに動いてくれたことに満足したのか、二葉くんは気分良く「ご馳走様でした」と言って別の部屋へ移動。対照的な二人だ。
 川嶋くんは微かに「はぁ」、と息を吐き、人が変わったように凛とした表情でピアノの鍵盤に優しく触れた。弾き始めは、寂しげにぽつぽつ囁く高音。途中からは低音と高音が重なり、大きな音量で、風が走り抜けるように流れる。最後はしっとり囁いて止んだ。

「水無月さん、どう思った?」

 桜馬先生に感想を求められた。

「月夜にさあぁぁっと風が走り抜けて、静寂の夜に戻った感じです」
「強風注意報か。ははは」

 桜馬先生が顔に左手を当てて肩を揺らしながら笑う。私は自分の感想を恥じて頬を赤く染める。演奏家が本職の人とクラシックの嗜みがゼロの人では感覚が違うのに、馬鹿にされたみたいでムッとなる。
 川嶋くんは

「だから嫌だっつったのに」

 ぶっきらぼうに言って席を朝倉さんに譲る。桜馬先生は笑うのを抑えて気を取り直した。
 朝倉さんが弾くと川嶋くんの時と違い、序盤から少し音量が大きめの弾き方で、間の取り方はスローテンポ。月光に照らされた神秘的な時間を確実に印象付ける。後半部分からの盛り上がりは、ドビュッシーのひたむきで繊細ながら熱くしたためた想いを、最後まで強調しているようだった。
 演奏が終わり、私は三人に顔を見られ、感想を求められていることを察する。

「先に言っておきますが、川嶋くんの演奏が悪いとは感じません。たおやかで素敵な旋律でした。でも、朝倉さんのほうがダイレクトに月を強調していると感じました」

 桜馬先生は笑みをふわっと浮かべて頷く。

「音楽のテストだったら、丸をあげたい回答だ」
「有難うございます」
「違い、わかった?」

 引っ掛かった点を、気後れしつつも話す。

「弾き方と、音の運び方が微妙に違うと思いました」
「うん、バッチリだね。奏者によって解釈は異なり、表現も変わる。感情の込め方も演奏に反映されるんだ」
「例えば?」
「同じ愛しさでも恥じらいを持った拙い恋心を表現したい人と、狂おしいほどの情熱的な愛を表現したい人とでは音の運び方が変わる。朝倉は、聞き手を口説いて酔い痴れるタイプ」
「シュン、一言余計だぞ」
「夫と子を不幸にしても、妖艶な愛に溺れて幸せな時を紡ぐ。外野を気にせず互いを意識し、ヴァニエはドビュッシーに愛されていることの実感を得て、喜びの笑顔を向ける。僕はPVでそう表現したい」

 誰かの愛する人を平気で奪う不倫を肯定するーー。不幸にして幸せ?私は嫌悪感を抱いた。表情を強張らせて俯き、爪が食い込みそうになるほど拳を固く握り締める。

「人の幸せを取り上げて笑顔になんかっ……気持ち悪い!」

 思わず感傷的になり、声を荒げた。はっとして顔を上げたら、三人に驚いた顔をされていた。失言だ。

「…………すみません。口が、過ぎました」

 朝倉さんは椅子に座ったまま体の向きを萎れた私に向け、嫌味なくにこにこする。

「俺達なんて奥様方のハートを射止めて、旦那さん達に恨まれっ放し。チサカちゃんも同性から疎まれることあるんじゃない?」
「略奪していないし、告白もされていませんが、恋人の女性に酷く怒鳴られました」
「奪ってなきゃいいじゃん」

 川嶋くんが気遣うように言った。桜馬先生は「不倫は置いといて」と横に置き、言葉を続けた。

「水無月さん、恋愛経験は?」
「過去に一度だけ人を好きになったことは。お付き合いは、まだ」
「経験は無くても、好きの部分だけ心を重ねることは出来る。想いは想像力だよ」
「……」

 楽譜とCDが収まった棚がずらりと並ぶシックな色の小部屋に招かれ、ヘッドフォンを渡されて耳に当てる。

「これ、聴いてご覧」

 先生が黒いミニコンポを操作し、ピアノとヴァイオリンが奏でる『月の光』を聴かせてくれる。耳に心地の良い、豊潤で上品な演奏が流れ込み、目を閉じると情景が瞼の裏に浮かぶ。

「ピアノのしっとりした音色にヴァイオリンの甘い歌声が乗って、声を当てなくても歌に聴こえます。高らかに、女性に愛を歌うような。情緒があって綺麗……。私、好きです、こういうの、ハーモニーって言うんですか」

 聴いているうちに幸せな気分に浸され、恍惚にも似た微笑みを浮かべる。不倫の時に生まれた曲である歴史は、唯一残念だ。
 曲が終わると次のCDに代わる。ヨーロッパで、優雅にお昼の時間を過ごしている気分にさせる曲だ。音が波になって踊る。ヴァイオリンがオペラを歌っている。

「ドビュッシー『レントより遅く』は、情愛の深さを感じるオススメの曲だよ」
「……世界が広がったみたい」
「気に入ってくれて良かった。二つとも僕と朝倉が演奏したんだ」
「凄い」
「水無月さん。お父さんは嫌い?」

 気分を下げる質問に私は笑みを消し、ヘッドフォンを取り外して率直に答える。

「大嫌いです。軽蔑しています」
「じゃあ、お母さん寄りなんだ」
「母も、好きにはなれません」

 思春期による反抗期ではない。もっとぐじゃぐじゃ絡み合って、解けない糸の塊と化している。何人たりとも切ることすら不可能だ。

「いつか、好きになれるといいね」

 返事はしなかった。その”いつか”を待ち望んでもやって来ないことを私は知っている。
 帰り際に朝倉さんと桜馬先生の電話番号を受け取り、次に会う日を決めた。
 すると

「良かったら、僕達とも連絡先を交換してくれる?」

 尋ねてきた二葉くんの上着を川嶋くんが後ろから掴んで引っ張る。

「学校で馴れ馴れしくすんなって言われたんだぜ。お前も気を遣え」

 間に、朝倉さんが割り込む。

「チサカちゃん。人付き合いは、自分を変えるチャンスになると思うよ」
「………………今はまだ、ごめんなさい」
「焦らず、ゆっくり行こう」

 執事の車で帰宅すると、玄関先にヒールが浅いベージュのパンプスが置いてあった。
 我が家に住まうヴァニエ夫人は、今夜の逢瀬を諦めて巣へ戻ってきたのだ。


(続く)

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