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食べる

 コンビニエンスストアは都会の誘蛾灯。摂取したすべての飲食物を記録しないといけない。強迫観念に塗りつぶされる。吐き出したものは二重線で取り消す。吐き出したことも忘れないように。摂取カロリーを書きつける。食べる。食べたい。吉野家、ビッグマック、二郎、バスキンロビンスのロッキーロード、都路里のパフェ、セブンのホイップ揚げパン、ミスドのオールドファッション。全部口に詰め込みたい。一瞬でも胃を満たしたい。血糖値のジェットコースター。チューイングじゃ我慢できない。でも痩せたい。痩せていたい。この世界にはカロリーが溢れている。一歩外に出れば刺激が、私に強要する、私に食べることを。あたかも脳を通して口の中にパンをぎゅうぎゅうに突っ込まれる。私は食べて食べて食べて全部吐き出す。私の食事記録は真っ黒だ。

 「私は健康ですか?私は病気ですか?」隣の席の男が立ち上がって教官に質問した。「わたしはメガネをかけていますが、わたしは病気ですか?」彼は質問を繰り返した。空気が凍る。「病気といえば病気だし、病気でないといえば病気でない。要は君の気のもちようだ。」教官のはぐらかした返答にクラスは笑いに包まれ、和やかな空気は取り戻された。取り残されたメガネの男子生徒は何かに納得したように2度頷いて着席した。あの時の教官の返答は医師として誠実だったとは言えないと思う。しかし、また一方で一つの真理を表していたとも思う。


 「私は健康ですか?病気ですか?」医師になった私は自問する。自分と同じ症状のクランケに私はどんな診断を下すだろう。摂食障害。頭をかすめる診察結果に私は首をふる。人間多かれ少なかれなんらかの欠陥を抱えて生きている。完璧に健康な人間など存在しない。生まれたての新生児でさえ何かしら要素について平均的な人間と乖離している。足が捻れていたり、肝臓が少し大きかったり、人中がうまく結合していなかったり。


 私は恵まれた家庭で育てられ、それなりに努力もして、今の地位や生活を手に入れた。そのことにはとても満足している。しかし、同時に私は何かにとても飢えていた。いつも空の容器に何か訳の分からない液体を注ぎ続けていた。それは満たされることはなく、永続的な活動として私に衝動を与え続けている。


 小学校五年生の頃、親から中高一貫校への進学を勧められた。私は特になんの意思もない普通の小学校五年生で、母の勧める進学塾に通い始めた。勉強は苦にならなかったが、気づくと間食が増えていた。これが始まりだった。私は食べることに固執した。私は母の希望する中学校に合格した、その頃私は同年代の標準的な人間と比べてやや太っていた。その学校に入ったことで母のみならず父や祖父母までも大喜びしてくれた。みんなが嬉しそうなことが私にも嬉しかった。


 中学校ではすぐに友達ができた。品のいい女子校で、容姿のことを話のネタにするような人間は1人もいなかった。中学二年生の夏休みに初めて生理がきた。私は自分が女なのだと自覚した。私は異性愛者で、異性が自分に何を求めているのかぼんやりと自覚していた。私は吐くことを覚えた。最初は抵抗を覚えた吐くという行為にはすぐに慣れた。そしてそれに依存するようになった。

 中高一貫校の授業ペースは早かった。それについていくことは私には難しいことではなかった。しかし、全くストレスがなかったわけではない。中学受験の時より強いストレスがかかった。高校受験がない分だけ、悠長だと入学前には楽観的に考えていたが、それは大きな間違いだった。13歳から大学受験を意識し続けた。母は私に医学部に行くことを望んだ。母は自身の学歴に強いコンプレックスを抱いていて、わかりやすく私にそれを押し付けた。私はそれを受け入れた。そして、食べる量が増えた。母は育ち盛りだからといくらでも食べさせてくれた。そして私は食べた、そして吐いた。お小遣いで菓子パンを買った。通学途中で食べ、公園で吐いた。

 私は痩せていった。家族はそのことに気づいていたはずだが、誰もそのことには触れようとはしなかった。私の体重は33キロになった。骨が浮き出ていた。成績は上位をキープした。私は17歳になっていた。生理は完全にストップし、やつれた顔面は老婆のようだった。胃酸で奥歯は溶けていた。痩せすぎた身体の線を隠すような服を選ぶようになった。髪が薄くなって帽子を被るようになった。利き手の吐きダコはどんどん硬くなった。生活に支障をきたすようになった。私は他の依存先を見つける必要があった。冬になんとなく喫煙を始めた。私はこれに依存した。普通の食事が返ってきた。体重は増え39キロまで戻った。まだガリガリの部類だったが日中に気絶することは無くなった。体力も回復し勉強時間が増え成績も上がった。肌の色も人間らしいものになった。問題はタバコ銭が小遣いでは足りないことだった。小遣いは5000円でセブンスターは一箱600円もした。最初は5000円の制約のもとで購買していた。しかし、こんなタガは一瞬で外れた。

 春になると私はmixiで知り合った見ず知らずのおじさんに下着を売ることを覚えた。自分の通っている学校の名前を暗に知らせる隠語を使い客を集めて、会った相手に学生証を見せると私のそれは考えられないような値段で売れた。高校三年生になると学校が終わった後にも医学部特化の予備校に通わされた。喫煙の量が増えた。予備校の一コマをサボって下着を売ることが日課になった。私には化学は簡単で医学部特進化学の講義は不要だった。私は大学に入学するまでに18枚の下着を捌いた。私は現役で私立の医学部に合格した。母は卒倒するほど喜んでくれた。父にも自慢の娘だと言われた。「あなたの自慢の娘は毎日2箱は吸うヘビースモーカーで、しかもそれを維持するために軽く春を売っていますよ。」そっと耳打ちしてやりたくなった。それはやめておいた。私は父や母に反抗してもよかったから、それをしなかったのは私の選択だから。選択は全て自分に返ってくる、いつからかそんな思考が私にこびりついていた。国立の二次試験で解答用紙を白紙で提出したことが私のささやかな反抗だったのかもしれない。父の収入で私を私立の医学部に通わせるのは楽なことではないはずだった。きっと母もパートに出るだろう。50近い専業主婦が初めて働くパート先のスーパーで同僚のバイトの大学生に嫌なあだ名を付けられているところを想像して、自分という人間の汚らしさを自覚した。

 大学生になり家庭教師のアルバイトを始めると、下着を売らずともタバコ銭には困らなくなった。両親は学費の他にも毎月仕送りをしてくれた。かなり無理をしていることは分かっていた。しかし、私は少し露悪的になって、わざと小遣いをねだってみたりした。金には全く困っていなかったが、どうしてか、私は両親を困らせることに快感を覚えていた。

 私は特に苦労することなく、国家試験までストレートで通過した。無事研修医になり、それもそれなりにこなし、都内の金持ちをメインターゲットにしたクリニックに就職した。そこでもそつなく仕事をこなした。都内の金持ちはみんな病んでいてトランキライザーに強く依存していた。私は患者たちが望むのより少し少ない量のデパスを、ソラナックスを、処方した。彼らの依存はだんだん強くなり要求する薬の量が増えていった。私の配慮など焼け石に水だった。みんな薬漬けになっていった。ほとんどの人間の悩みは同じで、労働の担当者(ほとんどは男性だった)は仕事のストレスに押し潰され、家事の担当者(ほとんどは女性だった)は日々の退屈にすり潰されていた。


 私は毎日毎日病んだ人間に向き合った。私は世界中の全ての人間は心を壊していて、ここに来ているのはその一部で、他の人間は大きな借金を抱えて消費に依存したり、家庭がありながら若い女や男に入れ込んだり、異常な量を食べてパンパンに膨張したり、身体中にタトゥーを入れたり、アルコールを大量に摂取したり、自傷したりしているのだろうと考えるようになっていた。そして幸せそうに何の迷いもなく気ままに生きている人間の方が恐ろしく異形な存在に思えてきた。こんな病んだ世界で、病んでいない人間はどこかひどく病んでいるはずだと思い込むようになっていた。すべての人間は病んでいるけれど、それもまた気の持ちようなのかもしれない。また定期的に吐くようになった。

 私は自分の処方している薬が脳のどのような部位にどのように作用しているのか知っていた。それは私にはとても恐ろしく、どうしてこんなものを易々と摂取することに同意するのか分からなかった。しかし、多くの患者たちは処方する薬の量を増やせば増やすほど私に感謝した。私は自分を合法的な薬物のディーラーだと思うようになっていた。そう考えると自分の収入にも納得ができた。同年代の平均収入を大きく上回る収入なんて、情報商材屋さんとか、マルチ商法とか、金融屋さんとかほとんど犯罪者みたいなことをしなければ得られない気がした。私もその仲間入りだと、自分を責めるようになった。稼いだ金で溶けた奥歯をインプラントにした。もういくら吐いても歯が溶けなくなった。体重はまた30キロ台前半になっていた。

 仕事が休みの日には朝からアルコールを摂取し、動画サイトで「ドカ食い気絶部」の動画を再生しながら、コンビニエンスストアで買い込んだ大量の食料を食べては吐いた。海老マヨネーズのおにぎり、ミックスグリルプレート、親子丼、ロコモコ丼、オムライス、フルーツサンド、ブリトー、揚げ鶏、アメリカンドッグ、豚まん、ピザまん、チーズ蒸しケーキ、粒あんとマーガリンのコッペパン、大盛りの明太マヨスパゲティ、ミートドリア、ロールケーキ、シュークリーム、スーパーカップ。3時間も過食嘔吐を繰り返すと体力的に辛くなり2時間くらい寝た。これを1日に2セットこなすと体はバラバラになりそうなくらい疲れた。内臓が悲鳴を上げ、吐瀉物には血が混じっていた。なぜか強く生を実感した。

 フラフラになりながら出かける散歩が好きだった。それはクリニックで働き出して2年目の7月で、夜風が心地よく月が綺麗な日だった。夜のオフィス街はとても静かで死んだ街だった。ビル風によろけ、たまにすれ違う酔っ払いの集団に卑猥な言葉を投げかけられた。それでも私は心地よく、踊るような足取りで歩き続けた。コンビニで白ワインを買いそのまま飲んだ。空っぽで荒れた胃はそれを拒絶し、吐き出してしまう。それでもアルコールは少し消化され身体が熱くなる。

 唾液と血液で薄汚れたタンクトップとスウェットのショートパンツが少し汗ばんでいる。私はイアホンを耳に押し込みお気に入りのプレイリストを再生する。サカナクションの「モノクロトーキョー」にあわせて言葉にならない言葉をうめきながら、手足をバタつかせ長い髪をかきむしりながら走り回る。聞き分けの悪い子供のようだ。自分を束縛する全てを断ち切りたいという、ほとんど祈りに近い欲望に身を任せた。

 口からは粘度の高い唾液が垂れていた。ほとんど失いかけた意識を繋いでいたのは''食べたい’’という衝動だった。自分の痩せ細った左腕を血が滲むほど強く噛んだ。痛みよりも出血よりも先に鋭い愛情が私を包み込んだ。イアホンからはミドルエステートの「たべられる♡/たべられない?」が大音量で流れていた。私の鎮魂歌。私は昂った気持ちのまま松屋に入った。牛丼の特盛と生卵を3つ。食券が吐き出される。お釣りの小銭を乱雑にポケットに押し込む。牛丼rta動画が一瞬だけ記憶の断片として持ち上がる。処理しきれない大量の情報が脳内をかき回している。いままで食べては吐き出したすべての食べ物、私の前にやってきては自分の症状を訴える患者たち、しつこく食事に誘ってくる同僚の医師、使われなくなった食器、頭痛薬の空き箱、眠そうな野良猫、知らない人たちの知らない人たちに関する噂話。薄汚い身なりで、ワインのボトルを抱え、イアホンからは音漏れ、目を血走らせた私。私を見て店員は一瞬ギョッっとする。しかし、店員はすぐに機械的に食券をちぎると厨房に戻っていった。5分もしないうちに山盛りの牛丼と3つの生卵が私の前に置かれる。私は卵を一つ手に取り、そのまま意識を失った。

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