見出し画像

早良と野方の古代の話

野方と額田

 福岡市西区野方の「野方遺跡住居跡展示館」に行って係の人と話をしたときに、「野方」は昔、「ぬかた」と呼ばれてたと聞いた。調べてみると、「筑紫国続風土記」に「額田」の記載があった。

「筑紫国続風土記巻二十 早良郡 上」より(意訳)
和名抄(和名類聚抄)に載るところ、この郡の里の名は6つ見られます。
・毘伊(ひい)今、樋井郷と言う。
・平郡(へぐり)
  飯盛の辺りを今は戸栗の郷と言われています。戸の字をへと読む。
  飯盛、吉竹、羽根戸、金武、野方、田村、重留、有田、小田部等をすべ  て平郡の郷とも言われている。
・能解(のけ)今、能解村有り。
・額田(ぬかた)。
・早良(さわら)。
・田部(たべ)今、小田郡村有り。

和名類聚抄だと7つあるみたい。
上記に加えて、
・曽我(そが)。

飛鳥時代から奈良時代の見知った名が見える。
奈良の律令制に従って早良郡の中に各氏族を長として7つの郷を配置したのかしら。
当時の氏族は各地に移住したという話があるようだし。
または平郡や曽我は渡来人が先祖だから、大陸から九州に渡ってきて、ここを拠点に中央(大和)へ向かった可能性も。

額田郷は現在の福岡市西区野方辺りと言われている。「ヌ」音が転じて「ノ」音になったんだろうね。

疑問

この「筑紫国続風土記」は、貝原益軒が編纂して、異説も細かくコメント入れるように記載している。
その編者が「曽我」の地名を落とすだろうか。
編纂されたのは元禄年間、江戸時代の前期にあたり、その時期の乙巳の変の取り扱いについてはわからないけど、「曽我」の名前には触れないほうが良かったのかなと思ったり。
調べてわかったけど、和名類聚抄にはいろんなバージョンがあり、曽我の名前がないものもあったようだ。編者が選択したのは名前のない版だったのだろうか。

早良は佐波良で鰆

早良は元は「佐波良」と書かれていたとのこと、万葉仮名は個人的に好き。
そして「サワラ」は春の魚を意味し、「鰆」とも書かれる。
さらに、帝の皇太子は「東宮」と呼ばれることがあり、「春宮」とも書かれることがある。
このことから、さわらの名を持つ「早良親王」という名前は、皇太子を意味する名前なのかなと思ったり。彼は実際に皇太子にはなったけれど、悲運の最期なの哀しい。
(思いつきで書いたことがあとで驚くことに。)

「儺の國の星」「儺の國の星 拾遺」

この記事を書くため調べていたら、那珂川市が発行した「儺の國の星」「儺の國の星 拾遺」という不思議な本が存在することを発見。しかし、この本は完売してしまったみたい。興味があって読んでみたいので那珂川市さん、再販ブリーズ。

これだから日本古代史はやめられない。


野方遺跡住居跡展示館 
https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/21

筑紫国続風土記 
福岡藩の儒学者貝原益軒が中心となって編纂した地方誌

和名類聚抄
平安時代の辞書。源順が編纂。


2023.04.01 加筆修正
2023.03.23 加筆修正


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?