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もっともらしい与太話が好き。ただの歴史好き。でも与太話書くよ。

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最近の記事

託宣 箱崎の神様

日本三大八幡の一つで、博多の有名な神様、箱崎宮。いつもの貝原益軒氏のお話で数回(長いのでw)に分けて紹介します。 筑前國続風土記 巻之十八 糟屋郡 箱崎八幡宮 より (意訳) その1 延喜式神名帳に、那珂郡八幡大菩薩箱崎宮一座大と記載があります。今(=江戸時代)は糟屋郡に属しています。祭神は三座です。 八幡大神は右座にいらっしゃいます。中座は神功皇后、左座は玉依姫です。この社は、上代は穂波郡大分村にありました。中世(延長元年=西暦923年)に今の箱崎の宮に移しお祭りするよ

    • 山茶と鐘

      前回高祖城のお話を書きました。そもそも何故原田氏と臼杵氏は戦ったのでしょうか。今回は筑前臼杵氏のお話を少し紹介したいと思います。 筑前國続風土記 巻之二十三 志摩郡 潤村 益水観音 平等寺址 臼杵塚 (意訳) 福岡よりこの場所(潤村)まで4里(=約15km)あります。前原はこれより半里(=約2km)ばかり西にあります。この村の通り道に土師というところがあります。初めは潤村の本当の名前を土師といったようです。 昔、この場所に平等寺という禅寺がありました。大きな寺でその敷地

      • 糸島のお家騒動

        宗像では宗像騒動というお家騒動がありましたが、同時期に糸島でもお家騒動はあったようです。筑前國続風土記の記事を紹介します。 筑前國続風土記 巻之二十三 志摩郡 南林寺(曹洞宗) (意訳)  岐志の中にあります。この場所には昔、金福寺という寺がありましたが、廃寺となり、名前だけが残っていました。  前の国主の(黒田)忠之公が、上座郡宮野村八坂というところにあった、昔は真言宗だったが途中で曹洞宗となった南林寺という寺を、この村(=岐志)に移し、八坂には昔のように真言宗の南林寺

        • 昔のWワーク

          あけましておめでとうございます。拙い文章ですが、筑前國続風土記を中心にぼちぼちやっていきますので、今年もよろしくお願いします。 少しでも生活を楽にと昨今は副業も珍しくなくなってきました。今回は筑前國続風土記に記載されている副業と善行の様子を紹介します。 筑前國続風土記 巻之十八 糟屋郡 表 尾仲村より (意訳) この村は、昔、太宰府天満宮の神領だったといいます。 老松大明神の社があります。昔は大社で、3箇所に鳥居、反橋、直橋などがあったそうです。毎年9月29日の祭礼には

        託宣 箱崎の神様

          米一丸

           少し前まで博多の心霊スポットとして、地元では有名だった場所です。実際はその近くの踏切だったんですが、鉄道の高架化に伴いその話は消えつつあります。このまま静かになって米一さんたちをそっとして欲しいものです。  貝原益軒さんの書く米一の伝説を紹介します。 筑前國続風土記 巻之十八 糟屋郡 表 米一石塔より (意訳) 地蔵松原の南、多々良川の潟に近いところにあります。米一(=米一丸)について、民間の言い伝えを聞きました。 駿河国に木島長者というお金持ちがいました。家は裕福だけ

          米一丸

          筑前國続風土記の中の宗像騒動

           筑前國続風土記の宗像郡の項を読みすすめると、後世、山田事件といわれる宗像大宮司をめぐる内紛について書かれてる項目がありました。貝原益軒の目からみた騒動をみてみましょう。 筑前國続風土記 巻之十七 宗像郡 下 山田村より抜粋 (意訳)  増福院には、毘沙門天が昔から祭られています。また、宗像大宮司正氏の後室(=母)と男の妻の墓があります。母子の墓は1つで、侍女4人の墓もあります。全員大宮司の家臣によって殺されたとされています。後室の怨霊の祟りがあったため、地蔵菩薩像を作り

          筑前國続風土記の中の宗像騒動

          至孝の道

           至孝とは最上の親孝行の意味です。貝原益軒氏が感じ入ったというお話を紹介します。 筑前國続風土記 巻之十二 嘉摩郡 上下村 より 抜粋 (意訳)  近年(=江戸時代)この村の貧しい民に次郎というものがいました。彼は幼い頃に父を亡くし、母親に育てられました。彼が十五歳になった時、家計は極めて困難な状況で、母親を養うための仕事も見つからなかったため、彼は自ら乞食となりました。  日々、彼は朝早く起きてご飯を作り、それを母親に食べさせた後、食器を洗って片付けました。そして、そ

          至孝の道

          万葉集 竹取の翁

          2023/09/29は十五夜です。月といえば竹取物語ですが、その原型と思われるお話を紹介します。 万葉集 巻十六 3791 (意訳) 題詞: 昔々、竹取の翁と呼ばれる老人がいました。季春の月(陰暦3月、現在の5月頃)に丘に登って遠くを見ていたら、ふと羹(=肉や野菜入れたスープ)を作っている9人の少女に会いました。その少女たちはいずれも類まれな美貌の持ち主でした。時に少女たちは、翁を呼んで笑いながら言いました。 「おじいさん、こちらに来てください。焚き火の火を吹いてください

          万葉集 竹取の翁

          日本昔ばなし風 桜島と霧島

          祖母から聞いた話です。 むかしむかし、桜島山の神様と、霧島山の神様はお互いに背比べをして、自分のほうが高いんじゃ、と言い張って譲りませんでした。 そのときの二つの山の高さは同じぐらいでした。 そこで、次に山にきた旅人に決めてもらおうと話をしていました。 そして、そこに旅人の老婆がやってきました。二柱の神様はどちらの山が選ばれるか見守っていました。 老婆は、霧島山に登り、その頂上に履いていた草鞋を置き、新しい草鞋に履き替えました。 そうです。草鞋の分だけ、霧島山が高くなりまし

          日本昔ばなし風 桜島と霧島

          天の道を往く神

           天の道を往く神は太陽神、今回はそんなお話です。  福岡県飯塚市には、「天道」という名前の地域が存在します。かつては嘉穂郡穂波町に属していましたが、現在は飯塚市に編入されています。この「天道」という名前は、天道宮という神社に由来していると言われています。この地名の由来について、いつもの筑前国続風土記を引用してみましょう 筑前國続風土記 巻之十二 穂波郡 天道町 (意訳)  筑前國続風土記によると、建立は寛永7~8年のようですが、由来の案内板では1000年以上前となってい

          天の道を往く神

          遊火

          本格的な夏になりました。江戸時代の福岡には、遊火、いわゆる鬼火や人魂が飛び回る地域があったようです。涼しくなりますように、少し紹介したいと思います。 筑前國続風土記 巻之六 那珂郡 下 大休 附鬼火より抜粋 (意訳) この辺り、大休には「六本松」という場所が存在します。夏でも冬でも、夜になると頻繁に飛火が発生します。その火は時に高く舞い上がり、時に低く揺らめき、安定することはありません。人が近づくと、火は一瞬で姿を消してしまいます。特に雨の夜にはよく現れますが、必ずしも毎

          博多のお祭り 形を変えて伝わるもの

           初夏の博多のお祭りといえば、山笠です。現在、各所で飾り山の設置準備が行われています。山笠の期間はきゅうりを食べてはいけないとか、(男性は)女性を抱いてはいけないとか、決まりごとがあるようです。山笠の山は、今は飾り山と、舁き山に分かれてますが、元は区別がありませんでした。飾り山がそのまま舁き山で、電線がない時代は、それはそれはジェンガのような高さでした。見てみたかったですね。 筑前國続風土記の中のお祭りの様子はどうだったでしょうか。 筑前國続風土記 巻之四 博多 櫛田社 

          博多のお祭り 形を変えて伝わるもの

          福岡のお祭り 謡の中の小松殿

          福岡では5月のGWに「どんたく」というお祭りがあります。その前身は「博多松囃子」と言われています。 では貝原益軒氏の頃、江戸時代の博多松囃子のお話をみてみましょう。 筑前國続風土記 巻四 博多 の博多の項 より 抜粋 (意訳) 博多では正月十五日に、松囃子という行事を行います。そのやり方は、まず貧しい人を雇い、福禄寿、恵比寿、大黒天の格好をさせ、馬に乗せて、頭の上に衣笠を被り、囃子詞を唱えます。 終わりには小さな仮閣(=さじき)の車を作り、舞衣を着せた稚児を乗せ、これを引

          福岡のお祭り 謡の中の小松殿

          小話 有間皇子の変 謎の遺言

          朝倉橘廣庭宮の怪異について調べるため、「日本書紀 巻第廿六 天豐財重日足姬天皇 齊明天皇」を読んでました。そこで興味深い話を見つけました。 まず背景として、有間皇子の謀反について簡単に説明します。 有間皇子は孝徳天皇の皇子として生まれました。生年は舒明天皇12年(西暦640年)です。 舒明天皇の後、皇極天皇が即位しました。その後、父の孝徳天皇が即位し、崩御後には皇極天皇が再び即位し、斉明天皇となりました。中大兄皇子と孝徳天皇は仲が悪かったため、孝徳天皇の崩御後、有間皇子

          小話 有間皇子の変 謎の遺言

          斉明天皇の朝倉の行宮

           貝原益軒によって淡々と書かれている筑前國続風土記ですが、めっちゃ饒舌に書かれている項目がありました。朝倉の社の場所が、江戸時代には既に筑前國説、土佐國説と分かれていることを知りました。というわけで、益軒氏の力強い?筑前國説を見てみましょうか。 筑前國続風土記 巻十一 上座郡 下座郡 朝倉橘廣庭宮 より (意訳) 斉明天皇6年(西暦660年)、新羅が百済を攻めてきたため、日本は反撃するために兵を派遣することにしました。翌7年(西暦661年)、天皇は自ら筑紫に赴き、この地に

          斉明天皇の朝倉の行宮

          日本昔ばなし風 阿弥陀峯

          筑前國続風土記 巻十 夜須郡 阿弥陀峯 より 抜粋 (意訳)  久光村(福岡県朝倉郡筑前町辺り)の中、甘木と秋月に行く道の分岐に阿弥陀峯というところがあります。  むかしむかし、この場所の上は、木々の茂る山でした。しかし、ある日を境に、老狸が住み着きました。  老狸は夜な夜な、光輝く阿弥陀如来の姿に化けて、人々を騙しました。 阿弥陀様と信じた人々に対し、老狸は「私に人間の生贄を供えるべし。浄土に迎えて連れて行こう」と告げました。  この土地は元々栗田村であり、久光村は

          日本昔ばなし風 阿弥陀峯