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オレンジのダイヤと呼ばれた静岡みかんと150年のロマン。

 いま我々は、150年続く大温州うんしゅうミカン時代に生きている。始まりは明治10年代。それ以前は、約300年のミカン時代、そして古代~室町時代まではたちばな時代だ。
 温州ミカンはかつて「オレンジのダイヤ」と呼ばれるほど稼げる作物だったことをご存じだろうか。それがいまやこたつの上の定番ぐらいの、気軽な存在になっている。一体何があったのか。この大時代を牽引した静岡のみかん産業史を追いつつ、栄枯盛衰をともに感じてほしい。(年表を作ってみたのでみてほしい。)

情報ぎゅうぎゅうに詰めてしまった。

斜面を彩る柑橘畑

薩埵峠さったとうげ近くの駐車場からの眺め。スキー上級者コース以上の斜度なのに柑橘の木がぎっしり。どうやって作業してるんだ..

 静岡を歩いていると、崖のような急斜面にみかん畑があって驚く。モノラック(運搬用小型モノレール)ケーブル(簡易索道)が設置されていたりして、そうまでしてどうして…?と思わずにはいられなかった。

茶畑やみかん畑によくある"モノラック"。
写真は清水の青木農園さんで見せてもらったときのもの。200kgぐらいは余裕で登坂するらしい。レールの敷設やメンテナンスが大変そう。

 急傾斜ミカンの謎に対する答えは、たまたま図書館で見つけた60年以上前の本にビシッと書かれていた。

静岡県柑橘史(昭和34年、静岡県柑橘販売 農業協同組合連合会)
図書館でかりました。サイズがわかりやすいように文庫本を添えてます。

ミカン園が、どうして、あのような嶮しい山腹にひらかれねばならなかったかを理解できない民間人はきわめて多く、その必然性をのみこむまでには長い時間がかかる。(中略)あのような急傾斜地には、柑橘よりほかに栽培しうる作物がないのだということである

同上

 本書の前後の説明をまとめると、静岡県は水田に向いた平地が少ないが、温暖多雨な気候好条件ではあったので、稲作以外の特殊な農業(例:茶、メロン、石垣イチゴ、柑橘など)が発達した、ということらしい。

もし、静岡県にコメやムギを豊穣にみのらせる広大な平野があったとしたら、あるいは、冬季にふかぶかとした積雪をみるような季節のおとずれがあったとしたら、さらにはまた、温州ミカンのようなすぐれた柑橘の出現がなかったとしたら、どうであろうか。どの要素の一つがかけても、こんにちの静岡県柑橘業はありえなかったと断言できる。

同上

 高度経済期に書かれた書籍ならではの、主観をたっぷりに含んだくどい言い回しが気持ちよい。惹きこまれ読むうちに自分なりの年表が欲しくなり、作っていました。

 それでは、自作年表とともにみかんの産業史をご紹介。(もし不正確な場所があったらご指摘くださいm)

"温州ミカン"の登場

 さかのぼること300年前、1700年代初頭に鹿児島の長島で、種のない、甘みの強くて大きな実のミカンが発見されました。これが温州ウンシュウミカンです。温州ウンシュウとつくので中国由来と思われがちですが、紀州きしゅうミカンと九年母クネンボが鹿児島で自然交配して生まれたものだと推定されています。

 ところが当時はミカンと呼ばれる小ぶりで種ありの品種が隆盛。種なしの温州ミカンは、味は良いけど縁起が悪いから、と不人気だったらしい。しかも江戸時代は作物制限もあり、農民がいろんな作物の栽培をチャレンジできる環境でもなく。日の目を見るのは百余年後、明治になってからでした。

静岡みかんの発祥

江戸時代は「小ミカン時代」

久能山東照宮(静岡市)で見た小ミカンの木

  さて静岡のみかん事情を振り返ります。静岡では古代からたちばなが自生していたことがわかっています。その後、1500年代から小ミカン栽培もちらほら開始。

 なお、静岡とみかんと言ったら「家康公のお手植えみかん」は外せません。大御所として(将軍を引退して)駿府城に戻った1607年頃に小ミカンの木を植えたらしい。現在も駿府城内に残っています(樹齢400年以上…?)

駿府城内の家康像
家康像のすぐ隣にある「家康手植えミカン」
直径5mほどのエリアに生え広がっている(おそらく高くなりすぎないように剪定されている)

 静岡の小ミカンは大きな産業として栄えることはなく、ほそぼそとおこなわれていました。

静岡にとって初めての温州ミカン 

 鹿児島で生まれた温州ミカンが、いつ静岡にきたのか..をたどると、岡部宿三輪みわ地区(現在の藤枝市)の地名が。1829年頃に三輪に温州ミカンがもたらされたらしい。

温州蜜柑は、今を去る百餘年前、田中城主本多氏紀州より邸内に移植したるを、岡部町三輪の柴田重右衛門といふもの、三本の接穂を請ひ、以て片山彌左衛門に接がしめ、同町阿弥陀ヶ谷に移植したるを嚆矢こうしなりと云ふ。

「静岡県志太郡誌」P933 柑橘 沿革

 静岡の温州ミカン発祥の地はどんなもんかと、2月に散歩しました。
 三輪地区は高草山の山麓で、斜面地が多い。その先には県内随一の平野部であり田んぼ広がる志太しだ平野。当時の田中城主も、平野に隣接しながらも稲作のままならない地域のことを想って、斜面で栽培できる作物を、と持ち込んだのかも。

三輪地区の十輪寺からみた海側の景色。奥は志太平野で田んぼが多い。麓(写真真ん中の下部)には柑橘園。十輪寺は高草山の山裾にあり、この辺りから上はすっかり斜面で、現在も柑橘園が多い。

 三輪に植えられた温州ミカンは、栽培技術が伴わなかったことから広がらず、県内で本格的に栽培が始まるのは、明治維新まで待つことになります。

明治とともに温州ミカン時代

 小ミカン時代は、明治期に入るとともに終焉します。明治維新で自由な作物に挑戦しやすくなったこと、温州ミカンが比較的輸出向きだったこと、「種なし」を縁起悪いとする風潮が陰ってきたことから、温州ミカンの栽培チャレンジが始まります。その先駆けが静岡県中部地域(旧清水市、藤枝市)でした。

清水で栽培開始

 1867年~68年、庵原いはら地区(静岡市清水区)の地主たちが相次いで、紀州から温州ミカンを持ち帰ったらしいのですが、なんと、リアカーに苗木を載せてひいて帰ってきたらしい。ということは、徒歩です…。当然、舗装された道路なんてない時代に。

和歌山県・有田ー静岡県・清水は、400km以上離れている…

 この時代の方達、とんでもなく働き者。

 庵原いはらの先人達は、苦労して持ち帰った苗木をどんどん小作人たちに配り、庵原に温州ミカン園を増やしていったのが明治初期(1870年代)。ただし当時はまだ江戸時代からのなごりで「みかんといったら紀州の小ミカン」。温州ミカンが市場に受け入れられるかどうかは博打だったはず。

 そして迎えた1881年(明治14年)。東京・神田の青果市場に有田産の温州ミカンが初めて持ち込まれ、想定以上の高値を記録しました。おそらく温州ミカン時代の到来を決定づけた瞬間でしょう。

 庵原いはらの先人達は英断だったわけです。果樹は苗木を植えてから数年は果実を収穫できないので、斜面で重労働をしながら「本当にこの苗木でよかったのか..」何度も迷ったに違いない。
 1880年代以降、温暖な気候を生かし、静岡県内でぞくぞくと温州ミカンの栽培が広がります。

 1900年代になると温州ミカンの第一次黄金時代が到来します。温州ミカンは「オレンジのダイヤ」と呼ばれるほど高値で取引され、米の3~4倍の収益性だったらしい。人力勝負のこの時代、収穫期には急斜面をオレンジのダイヤを両肩に担いでおろさねばならず、東北の米農家が出稼ぎにきたとか。

戦時下の伐採危機と第二次黄金期

 1934年(昭和9年)、ついにみかん先進地だった和歌山県を抜いて、静岡県のみかん生産量が日本一になりました。耕作面積は、40年前の10倍。

県内の温州ミカン耕作面積の推移

 ところが、1941年(昭和16年)太平洋戦争が開戦。食糧増産のために各地の畑は転作を強制されます。御多分に漏れず、静岡の柑橘畑も皆伐してムギを植えよと命じられたらしい。さすがに斜面でムギは育たんのよ..と必死の思いで当時の柑橘産業関係者が立ち向かい、最小限の伐採に抑えました。これが静岡の柑橘業を救うことになる。

説得が功を奏したか、結局、県内のミカンの伐採は「東海道線の車窓から見える範囲の平坦(たん)地を」ということで収まった。戦後、静岡のミカン生産は復興の足取りがどこより早かったが、和歌山などは皆伐の痛手から大きく出遅れ、大阪は産地が壊滅、ついに復興することがなかった。

中日新聞「非国民<下> 皆伐の危機から救う」

 戦後復興から10年後、1955年頃(昭和30年代)から、国を挙げたみかんブームが到来します。国有林の払い下げ、長期低金利有志や助成金で柑橘栽培を後押し。第二の黄金期です。
 この時代に出版された「静岡県柑橘史」でも、熱く柑橘産業の明るい未来が語られています。

なるほど、ミカン産業の将来はまことに明るいものがあるといわねばならない。

「静岡県柑橘史」(昭和34年(1959年)刊行)

高度経済成長期と"みかん危機"

 1960年代、時代は高度経済成長期。ブルドーザーの投入や機械化で開拓スピードや生産効率が向上し、西日本を中心にみかん園が急増します。
 当時の書籍では以下のように語られます。

戦後、非常な勢いで西日本一帯に造成されたミカン産地は、今や、わが国温州ミカン産地図を急速に塗りかえつつあり、俗に旧産地と呼ばれる本県ミカンの将来は、こうした新産地の台頭によって窮地に追い込まれるのではないかとの見方すらあるようです。

昭和43年(1968年)11月3日 静柑連会長 塚口勇作
出典)「静岡県柑橘功労者紀要」(昭和44年発行)

 同じ文章では「今後のミカン企業が、非常に難しく、かつ苦しいことは当然のこと」と書かれており、柑橘栽培関係者らは生産過剰の未来が遠くないことを感じていたようです。

 そして1968年(昭和43年)、大豊作及び品質低下によってみかんの価格が暴落。さらに4年後の1972年(昭和47年)大暴落し、ついに農家の手取りが生産コストを下回ることに。

昭和43年から昭和46年まで200万tから250万t前後だったミカンの全国生産量が、昭和47年には一挙に365万tに増加し、価格が暴落した。(中略)翌48年の石油危機で生産費が大幅に上昇し、2年連続で赤字に

データベース『えひめの記憶』2.価格暴落への対応

 同時に、工業化とともに第一次産業から第二次産業へ、人材が異動していきます。人材不足、離農が始まる。

生産調整の時代

まさに激動。生産過剰だけでなく、消費者の嗜好の変化やオレンジの輸入自由化など苦境は続く。

 1970年代の文章には「ミカン産業に、歴史的危機が迫っている」と表現される状況に。価格維持のために、各地で減作や転作、優良品種への改殖が行われました。

 続く80年代後半(昭和の終わり)には、大規模な基盤整備事業も動き始めます。明治初期から温州ミカンの栽培を始めた庵原いはら地区でも、山を削って谷を埋め、平坦な共同農地を整備。

庵原の山に造成された、大規模で平坦な樹園
作業効率が抜群に上がる。
細かい資料だけど、平成の取り組みがわかりやすい。
農村振興プロセス事例集 Ver.3(農林水産省、平成29年)P46

 平成に入ると、担い手不足が加速します。

担い手の減少、高齢化、耕作放棄みかん園などの問題が次第に広がりをみせており.. 

「静岡のみかん」平成5年

 (平成以降が駆け足になってしまいますが…)令和の現在は、温暖化などの地球環境変動にも悩まされています。

農業者の減少と担い手の後継者不足による耕作園地の縮小などにより生産基盤はぜい弱化しており、大規模自然災害や気候変動による栽培環境の変化、鳥獣・病害虫のリスクなどさまざまな課題を抱えている

「第63回全国カンキツ研究大会 開催要領」(2023年8月)

 みかんが大好きなんだ。廃れてほしくない。あわよくば、昭和の栄華を再び手にしてほしい。

みかんの消費

 以上、生産者目線の栄枯盛衰をまとめてみましたが、最後に消費者側の動向にも触れておきたい。

 果物くだものといったらみかん、と思われる方は多いと思う。私もその一人。だけど令和の現在、国内で最も食べられている果物は、バナナ。次いでりんごで、みかんは3番手に甘んじています。知らなかった。

生のフルーツの購入金額合計のうち、みかん、りんご、バナナが占める割合をグラフにした。
3種とも下降傾向なのは、消費の多様化でメロンやいちごなど3種以外のフルーツも食べるようになったことを示す。
(出典:総務省統計局「家計調査」家計収支編 二人以上の世帯など)

 "みかん危機"前後(1960~70年代)は、購入する果物のうち3割がみかんだったので、文字通り、「果物といったらみかん」の時代でした。ところが、りんごが常に2位(かつ15%前後)をキープしている一方で、みかんの凋落が激しい。おそらく「手軽に剥けて、万人に好まれる甘い味」ポジションをバナナに浸食されている。バナナ側の事情を調べ切れていないけど、安価なこと、健康志向の消費者に「朝バナナ」として認知されたこと・・あたりが理由でしょうか。

 そもそもフルーツの購入量自体が長期的に減少し続けているので、もし仮にバナナの輸入を止めたとて、往年のポジションへ返り咲くことは難しいでしょう。スマート農業も高付加価値化も農家さんの一助になれど、需要のトレンドを大きく変えるものではなさそうです。
 では柑橘業は衰退の一途なのか、と問われるとそうは思わないし、思いたくありません。農家でもJAでもない私が言えることは少ないけれど、現状に風穴を開ける方法として一つ心当たりがあるとしたら、それは農家さん自身の発信ではないでしょうか。

清水区・庵原いはらの青木農園さん。12月に参加したみかん狩りの景色。最高でした。

 そもそも静岡のみかんに興味をもったのは、去年の夏に庵原いはらにある青木農園さんを訪問したから。みかん農園をみせてもらいながら、農業の現状と、往年の華々しい伝説を教えてもらいました。日常の景色となっていたみかんが、急に歴史ドラマを背負った特別な存在に変わりました。

 青木農園さんのみかん狩りに参加したり、Instagramをみていると、農作業やみかんの解像度があがり、とにかくみかんが食べたくなるし、美味しく感じます。これは現場リアルだけが持つパワー

 どうか、全国のみかんに関わる方々、忙しいと思うのだけど現場の情報を発信していただければ嬉しいです。私はもっとみかんのリアルを知って、もっとみかんを堪能したい!!(私利私欲の締めになってしまった。)


補足

 すっかり長くなってしまいました。それでも書ききれなかったテーマがいくつかあります。

みかん輸出の挑戦と失敗の歴史/昭和のみかん農園を支えた機械たち/みかんとマグロの関わり(ツナ缶と伊豆川飼料さんが登場する)/みかんの皮を剥くイシダテックさん、剥かれた皮の行き先/静岡の温州みかん発祥の地、岡部地区のこと/青島みかんの発見と普及 ….などなど

近日中に書きあげたい…と思っています。

年表のPDF版も置いておくので、よければ高解像度でご堪能下さい。

https://drive.google.com/file/d/1yROETBeaj4MBMQotESpB9_3F-OHfn34S/view?usp=sharing

その他、関連するnoteのリンク。

①最後にご紹介した青木農園については、訪問時の興奮さめやらぬうちにnoteに書かせていただきました。

②過去には、タクシー無線の年表も作りました。年表好きにおススメ。


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