ゴッシーが行くvol.24《私がチェリストになった経緯》その2


前回はチェロを初めたところから
齋藤先生のレッスンが始まり
音楽教室に入るところまでだった

最初のオーケストラの合奏で
体がふわっと浮き上がる感覚があったと書いたが

今だにオーケストラの中で弾いたり
室内楽で合奏した時の音の中にいる
特別な感覚は 当時より体重が
重いせいか体が浮き上がりはしないが
楽しい


さて 音楽教室
私のチエロのレッスンはまだ指の形を並べてる段階

しかしオーケストラは始まっていて


私の始めてのオーケストラの曲は
モーツァルトの
ティンパニー入り弦楽合奏の
セレナータ、ノットゥルノ


チェロパートは音が少なくて助かった
なにしろ私はまだ全然弾けない


その時のメンバーは 
ソロ バイオリン田中直子
ソロ ビオラ川崎雅夫
(現在は2人ともジュリアードの先生)

コントラバス 井上道義
(ご存知 最高な指揮者)

大学生達が音楽教室のオーケストラに手伝いに来ていた


井上道義は当時も絶好調で
休憩時間に私の子供用の小さいチェロをバイオリンのように肩に担いで
弾いてくれた




毎週土曜日は学校を早退して桐朋学園に向かい到着すると4階のロビー
にいる原田禎夫たちと
(のちに東京カルテット)
私の
少年サンデー、少年マガジンと
彼らの
平凡パンチ、プレイボーイと
物物交換


ソルフェージュの進級テスト
がある日はプレイボーイの
裸のねーちゃんを見ながら
サボって上のクラスには
上がらないようにしていた 
何故か?

ソルフェージュの高度な訓練は私には
まだ必要がないと思っていた
ソプラノ記号 とかアルト記号を読む
のではなく簡単な課題が重要だと
思っていた(生意気なガキだよなぁ)



音楽教室2年目には中学生になっていて 
まだ全然弾けないが
斎藤先生のレッスンはエチュードと
簡単なコンチェルトも始まっていた


私は下手すぎて1日30分弾くのが
やっとだが、なにしろ学校の勉強を
全くしないので 自分は
音楽家の道しかないと思っていた




2年前の私の仕事だったコマ回しは
卒業していて当時は自転車
仕事は1日中自転車転がしだった



当時オーケストラでやっていた曲は
Bブリテンのシンプルシンフォニー、
モーツァルトで体験した初めての
合奏の喜びから
この曲で更に深い音楽を体験していた





その頃になると 
そろそろ音楽高校の受験準備のためにソルフェージュと調音
(音楽教室でもやっているが
ピアノで弾かれたフレーズを譜面に書き取る)のレッスンも受けて来なさい
と斎藤先生から言われて
伝説の作曲家 
八村義夫のもとに2年間通う事になる

八村先生のレッスンは素晴らしかった
8小節の美しいメロディーをその場で書いて、弾いてくれた





高校の推薦試験は八村先生のおかげ
もあり 
また当時の音楽教室の先生は
ほとんどが私の従兄弟の桐朋学園
一期生の同級生 
試験なのに木越くん
もう1回歌ってみる?とか 
まーほとんどインチキだなこりゃと
思っていた


そんな事もありソルフェージュは
音楽教室から推薦されてok
音楽高校の入試の面接の時
面接会場に入ると匂う 
酒の匂いだ
井口基成が椅子の上にあぐら坐りして 水玉模様の茶碗でウイスキーを呑んでいる


ウワサに聞いていた 伝説の世界



その井口基成が私に聞いた
愛読書、アーサー、ランサムて何?

児童文学作家です、あっそう
部屋を出る時、齋藤先生が立ち上がり
よろしくお願いしますと言った、
英語28点と落第点だったらしい

























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