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第3章【9】K先生との主科チェロレッスン①

注)写真は、私がアフリカで昔働いていた時のものです。アフリカの国々では、いまだ生徒数に見合う学校、教室の建設が進まず、教室に入れない子供たちが青空学級で授業を受けています。(撮影:いちあ)


今回は、現代音楽の授業の話は少し後回しにして、いよいよ、チェロのレッスンについて!!

1年生の時は、私の主科、すなわちチェロのK先生は、だいたい火曜にレッスンを設定していた。

K先生は、すでにプロオーケストラの首席チェリストの職を定年退職され、しかし当時も(現在もだが)、ちがうプロオーケストラの首席チェリストをされていた。それ以外に、御自分の演奏会や、他のオーケストラでの演奏で、火曜が日程変更になることがあったが、連続して2週休講などということはなく、ちゃんと定期的にレッスンをしてくださり、私としてはとても助かった。

K先生は、他の弦楽器コースのヴァイオリンの複数の先生方が口をそろえて仰るに、『K先生は、基礎からじっくり教えてくれる先生だから、、、』という評判だった。

K先生との初回のレッスンは、あまりの緊張で、レッスンの、弾いている時に、わっと汗がでて止まらず、ひたいから汗がながれるまま弾き、すごく恥ずかしかった。

K先生が持ってきてね、とおっしゃったチェロの教本は、よくあるチェロ教本3冊と、バッハのチェロ無伴奏組曲の楽譜だった。

意外だったのは、その3冊のうちの1冊が、もう初歩の初歩の教本で、しかし、K先生は、その教本をとても好んで使っているらしいということがのちのちわかってきた。そして、かなり弾ける学生にも同じ教本を使っていたりすることもあるそうで、『K先生は、基礎からじっくり教えてくれる先生だから、、、』という言葉が、4年たった今ならわかるのだが、当時は、なんで、コレ?と思っていた。

K先生は、昔はとても怖くて、怒鳴ったりしたらしかったが、お年を召されて、当時はそうでもなくなって、穏やかな感じだった。(しかし、これには後日談があり、4年経過し、大学という枠組みがなくなった今もかわらずレッスンをして頂いているが、だんだんK先生が、実は結構、穏やかでもない、と今は思っていたりする私であった。師弟関係は難しい、、、)

私は、初回のレッスンの際、自分がいい加減な気持ちで大学に来たのではないということをわかって頂くために、『K先生、私、うまくなりたいので、怒鳴られても、蹴られても殴られても大丈夫です!厳しくご指導のほど、どうぞよろしくお願いいたします!』と言った。

するとK先生は、『ガッハッハッ、そんなことしないよ~、ワタシも昔は若かったからさ~』、と笑っておっしゃった。

大学でのチェロのレッスンは週に50分、1コマで、前期15回、後期15回という設定だった。

K先生は時には長く指導してくださり、初回のレッスンも、次の学生が廊下で待っていたのだが、ずっと延長してみてくださった。

初回は、音階の正しい練習の仕方、弾きかたを教えて頂き、チェロ教本の3冊、そして、バッハの第1番のプレリュードを弾いた。

K先生は、それからわかっていくことなのだが、毎回、できなければ、意地でもそこから動かず、1小節、2小節目に留まって教えてくださることが多かった。というか、私がなかなか弾けるようにならないので、そこから絶対に動いてくれなかった。K先生にしたら、それはとってもストレスのたまることだし、大変なことだと思うのだが、何度も注意してくれた。

本当は何度も同じことを注意されてはいけないのだが、とにかく私は、年齢のせいか、体の反応、頭の反応がいまいちで、とにかく、なんでも習得に時間がかかった。

K先生は、ずっとレッスンの間、チェロを構えて、弾いてみせてくれた。

ボーイングを教えてくださるときは、本当に手取り足取りで、ものすごく丁寧だと感じた。

K先生は新しい学生を教えるのが楽しいそうで、『これから楽しみだな』とおっしゃり、初回のその日、とても機嫌がよかった。

しかし、それが、K先生にとっては、おそらく、受難もしくは苦行ともいえる日々、私にとっては、あこがれのチェリストに教えてもらえる、夢のような日々であると同時に、長いながーーーーーい、もう、すごくゆるやかーーーーーーーーーーな進歩の階段を上る日々の始まりだったのである。


次回もどうぞ宜しくお願いいたします~!!


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忘れられない先生

チェロで大学院への進学を目指しています。 面白かったら、どうぞ宜しくお願い致します!!有難うございます!!