皇帝の新しい心

1.世界最高峰の物理学者

中心帰納とは何なのか 探究(2)の続きの記事を書いているのですが、思いのほか苦戦しています。
実はこのシリーズのアウトプットをもって、無元塾の白石先生認定のインストラクター資格の申請をしようと思ってたのですが、この記事を書くにあたり、ある本のある記述をどうしても絡めたいと思い、今、再読しております。
お盆はぶらぶらしつつ読書しようと言う感じです
その本の名は「皇帝の新しい心」ロジャーペンローズ著

この本は、車いすの物理学者スティーブン・ホーキングとともに、「特異点定理」を証明した本物中の本物の物理学者が書いた数学と物理学が織りまじて「意識ってなんだろう?」と哲学した本です。
この方は、超一流でありながら、物理学の主流とは少し違う立場をとっております。所謂実在主義者で、この世をつかさどるイデアのようなものが、人間の認知とは関係なく実在しており、この世はある意味でイデアの写像であると主張するグループです。

実証主義者は今はやりのエビデンス主義といいますか、証拠がなければないのと一緒というようなやや冷徹な態度をとっているのですが、

この実在主義って滅茶苦茶熱くないですか?
こんなこと言うと怒られそうですが、実証主義の学問と言うのは「秀才の学問」だと個人的に思うのですが、
天才であるならば、いくつかの事象から、裏にある司る「何か」に嗅覚がはたらくものだと思うのです。もちろん、その「何か」の証明は「実証主義」の立場からなされるのがベターだと思うのですが、大きな仮定はエビデンスよりもセンスがものをいうとわたしは思います。また、その仮定は構造上、実在主義の立場からのほうがやりやすいと思っています。

そして、実在主義と言うだけでも、異端なのに、この「皇帝の新しい心」は意識という観測不能なものを、思索(と言っても数学的思索)から攻めた、まあはっきり言ってエビデンスというものはない未科学(※)の本で、
異端の中の異端の本という感じであります。(当然各分野から猛烈な批判がされたそうです、特にAI分野)
まるで、合気道界の成田伝合気道ではないか。。。あ、いやなんでもないです💦

※ただし、あくまで数学的証明を使って、機械ができないことを論理的に証明し、逆に人間が理解できることを証明していくので、彼の主張は特にAIに携わる人には受け入れがたいものであるが、だれも根本的な反論はできないという面白い現象が起きている。

2.難書、もう超難書💦

この本、高校生程度の数学知識があれば読めることは読める本なんですが、まあなんかやっぱり難しい。
自分の中で難書ランキングは「如是我聞 円和の合氣道」成田新十郎著に並んで同率一位です。

両方とも哲学書と言った趣で、読んでは読み返しを繰り返して、少しずつ読み進める本かな?という感じ
まあとにかく噛めば噛むほど味が出る本ですね

3.意識は計算不能(多分無意識も)

この本を、滅茶苦茶かみ砕いて言いますと、意識について数学的思索をしていくと、人間には理解できて機械には理解できない数学的証明が出てくるよ
という感じです。
実は数を数と言う記号のみで定義できないという数学的証明があるんですが、記号の羅列だけでは絶対に解けない問題と言うのが、すでに数学では出てきているのです。
大学を卒業してすぐあたりにこの本を読んだとき、滅茶苦茶衝撃を受けた覚えがあります。
それは見事な証明で、「あ!なるほど!これはどんなに機械のスペックを上げても、人間の真似は出来ても、本質的には上回れないと」と思いました。

ぼくはその証明をどうしても紹介したいんです。だから、いま皇帝の新しい心を再読しています。
「あ!なるほど」の質感の体験をして欲しいのです。

計算とは、記号を記号によって示されたルールに基づいて処理することだと思います。(アルゴリズム)
これは武術の型を力学的解釈の元、遂行するのに似ているかもしれません。

しかし、それだけではどうしても届かないものがあるんです。

脳は電気信号のやりとりで動いているので、科学的な分析ではコンピュータとは大して差はないかもしれない。

その電気信号のやり取りの結果、付帯的に意識が沸き上がる。

これは、実証科学的には正しいかもしれない。証明されるのも時間の問題かもしれない。

でもそれは事実の一面に過ぎないかもしれないのです。

実証科学的には、物理学は宇宙の現象の内、数化できるものだけしか扱えない。そして、数化できたとしても、計算不能である事象と言うのは存在します。

意識には数化できないものがあります、それが質感です。

ある意味で、成田伝合気道は実証主義科学に対する実在主義(イデア論)みたいな立場の合気道かもしれない(これはマジで僕だけの個人的主張です)

まさに裏合気道

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