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第一九節 J2と而立

 惰性とはじつに恐ろしい。二〇〇〇年五月二七日のいわゆる”長居の悲劇”なんてものが、まるでなかったとでも言いたげな日々が続いている。おそらく紙テープは綺麗に片づけられ、ピンク色のビニール袋は自宅のゴミ箱にでもセットされているのだろう。
 二位でファーストステージを終えられたわけだけど、結局のところ翌日からはごく普通の生活がはじまっていた。
 現にセカンドステージ初戦のホームゲームは観客数も一万人台。
 優勝争いで集まっていたはずの観客の影響なんて皆無だった。故にゴール裏のサポーターが一気に増えたという感も正直なかった(とはいえ水曜日のナイトゲームに比べたら入っていたほうだけど)。それでも、気のせいでもなんでもなく一〇代や二〇代前半のウルトラが着実に増えていた。
 あの四万人を超える観客を最後の最後までリードできなかったという悔恨の情が心に深く刻み込まれたぼくは、ここのところ、セレッソ大阪サポーターとしてのを行末を考えていた。少なくとも近いうちにはコールリーダーという立場からも身を引く決断をするはずだ。
 禁断症状という多種多様なアレルギーが表面に出てくることは心配しているものの、二一世紀を迎える来年に向け、時代の変化を敏感に受け止めることもリーダーの持つべき能力であると思うようにした。

 そんな二〇〇〇年後半のJリーグを戦いながらも、二〇〇一年シーズンに向けてコールリーダーとしてのアクションを着々と遂行していった(前半戦ほど勝利が多くはなかったものの、いくつかの印象的な試合もあった。それでも全体的には物足りなさを感じた)。
 来年セレッソ大阪に昇格する(であろう)何人かのアカデミー選手(特にこの年のアカデミーは中井義樹、川崎健太郎、濱田武と、たいそう粒が揃っていた)へのサポートと同様に、国見高校に在学中の大久保嘉人の勧誘に勤しんだ。
 かねてから大久保嘉人のプレーを生で見たいと思っていたぼくは、彼が強化指定選手として参加しているアビスパ福岡との試合があると聞いて、アミーゴと舞洲へ向かった。
 もちろんまだ高校生でもある。重々承知していたけれど、本人に会った途端にやっぱり行動が感情で支配されてしまった。この選手はとんでもないプレーヤーになる。そう実感させるに余りある才能をぼくらに見せつけてきた。ここからは常識の度を超えたサポーター活動となっていった(接待漬けとはこのことを言うのかもしれない)。
「一緒にセレッソ大阪で優勝しようや」
「君が来てくれたら一生ついていく」
 ひたすら歯切れのいい言葉を並べまくっていく。さらにはウルトラスのマフラーをはじめ、ありとあらゆる策を講じて大久保嘉人のセレッソ大阪への加入のためにぼくらは尽力した。
 この年、国見高校は三冠を達成した。大久保嘉人もインターハイと選手権で得点王となり、そして、無事セレッソ大阪にやって来た。
 わずかばかりではあるけれど、あのREAL OSAKA ULTRASという文字が描かれているジャガードマフラーの破壊力は絶大だったのではないか。ぼくはそう思っている。

 しかしだ。しかし、そんな彼らが加入した二〇〇一年に、セレッソ大阪のJ2への降格が決まってしまった。もっとも大きな原因は西澤明訓の海外移籍とも言えるのだろうけど、実際はそれだけでもなかった。
 クラブも選手もサポーターも慢心という言葉に支配され切っていた。
 セカンドステージにいたっては一五試合中一四試合で失点、四点以上取られた試合が四試合と散々たる結果に終わった(唯一の喜びはホームでの大阪ダービーの勝利くらいだろうか。とは言っても初戦のサンフレッチェ広島戦からこの試合まで七連敗中だったので、心が折れそうなくらいの震えるゲームになった。試合後の安堵が余計に地獄絵図を悲惨さを増幅してしまい、さらなる歪な残酷描写に染まっていったのは言うまでもない)。
 この先のセレッソ大阪の不遇を象徴するかのような二〇〇一年シーズンの思い出。それはあの大阪ダービーと、二度の監督交代と、札幌戦のあとの石原裕次郎記念館と、そして小樽の味噌ラーメンだけだった。
 そんななかで天皇杯だけはなんとか勝ちあがっていた。順当とは呼べないまでも、いくつかのレッスンをクリアしていった(実際には名古屋グランパスエイトが佐川急便に負けてくれたことでこの結果につながった感はある。多分それこそが本当にあった怖い話だ)。一九九五年同様にセレッソ大阪とセレッソ大阪サポーターは元旦までサッカーを続けることができた。
 もうあの頃のぼくとは違っている。人並みの生活ができるくらいのお金を稼げるようにもなっていたし、もやしと醤油とご飯で空腹をしのぐなんてこと ― 栄養失調になってまで合同コンパに行く根性がわからないと周りから言われた人生もようやく終焉を迎えた結果 ― もなくなっていた。
 準決勝では翌年の日韓ワールドカップのファイナルで使用される埼玉スタジアム二〇〇二である(実はこのスタジアム建設に寄付をした関係でぼくの名前がコンコースの壁に刻まれることになっている)。
 相手は圧倒的ホームの浦和レッズ。当然のことながらぼくらはスタジアムの僻地へと追いやられた。
 それでもなんとか勝利して国立(またまた国立!何度繰り返すことになるのだろうか)へと向かうこととなり喜びを爆発させた(それにしても協会にはちょっとこのレギュレーションを考えて欲しかった。一二月二九日に大阪と埼玉を往復し、その三日後には東京を往復することになるのだ。サポーターは旅好きではあるけれど、旅の狂信者だと思っているのなら、それは大きな間違いだ)。

 二度目となる元旦の国立霞ヶ丘競技場陸上競技場での天皇杯決勝。今回のセレッソ大阪サポーター席はアウェイ側だった。ぼくらはあえて一二番ゲートを避け、中心をゴール裏のバックスタンド寄りに陣取ることにした。
 この選択が最適解かどうかなど誰にもわからない。これまでの慣習をぶっ壊していくのもセレッソ大阪サポーターのよさでもある(それと、あの国立の夜のトラウマを思い出したのも多分に影響した)。
 数のうえでは圧倒的にオリジナル一〇の清水エスパルスには負けていた。だけどそんなものは今にはじまったわけでもない。なにもできなかったあの初めての国立の失望が目の前にちらつく。
 自分たちでは抗うことができなかった屈辱の夜がふと頭をよぎる。だからこそ誰にも邪魔されることのないセレッソ大阪サポーターだけの世界を味わえる感触が心地よかった。
 もちろん、この場所に来ることができなかった選手、サポーターの思いを胸に戦うつもりだ。先制されても、追加点を取られても、コーナーフラッグの前に陣取るサポーター全員の心をひとつにするための応援に、ぼくはとことんこだわった。
 こだわったことによって何度も国立に置いてきたふたつの忘れ物を、ぼくはなんとか試合中に見つけることができた。
 負けたけど試合内容では互角だったとも言えるし、人数では圧倒されたかもしれないけれどセレッソ大阪サポーターは最後まで粘り強く戦った。これが来シーズンのJ1復帰のための足がかりにもなるのだという確信に近い思いを、ぼくは素直に受け止めた。

 この試合でのもうひとつ大きな出来事といえば岡山一成かもしれない。
 セレッソ大阪から彼がいなくなることは天皇杯決勝前にすでにわかっていた。
 もちろんフォワードとしての最大の仕事(点を取ること)の面で見劣りしたし結果としては致し方ないところでもある。だけどこの清水エスパルス戦での活躍でワンチャンあるかなと思わせてくれるような、そんなプレーの連続だった。
 試合終了後にセレッソ大阪サポーター席の前で深々とお辞儀する彼の目からは相当の量の涙が汗と混じって流れ落ちていたように見えた。ぼくはその姿を見ながら国立の柵の上で立ち尽くしてしまった。
 今さらここで言うことでもないけれど、サッカー選手とは何と儚い人生を歩んでいるのだろうとつい考えてしまう。彼らが壮絶な思いでプレーしていることに、改めて胸をしめつけられる思いだった。
 すべてのプレーヤーに言えるのかどうかわからないけれど、明日また同じ日が来ると思っている時点で選手としてはもう手遅れなのかもしれない。何という厳しい世界に身を置いているのだろうか。
 サポーターは、そんな彼らの持つ世界観のひと役になれているのだろうかとときどき思うことがある。信頼関係とも呼べるつながりが、降格することで芽生えるなんていつのときも思いたくはないが仕方ない。
 それでも来シーズンはやってくる。今日、ピッチに立っていた選手が翌年にはいなくなってしまう可能性だって充分にある。それがこの世界の掟。世の常だ。
 彼らの気持ちも強く胸に抱いて、この先のセレッソライフを生きていかなければならない。いまだ広がっている国立の青い空にぼくは誓った。

 重くもなく軽くもない心持ちで二〇〇二年というワールドカップイヤーをぼくは迎えた。セレッソ大阪が所属するカテゴリーJ2は、一二クラブによるホーム二試合アウェイ二試合の計四試合の総当りである。
 この四二試合という長丁場(J2にはステージ制も無くただひたすら向かってくる相手を打ちのめす以外に道はない)を見て、昨シーズンとは違えどこれはこれでつらい一年を過ごすことになりそうだと理解し、ぼくは腹を括った。
 加えてワールドカップがあるわけだ。練習場を取られる予定のクラブもいくつかあると聞いた。とにかくすべてが祭りモード優先になっていることに憤慨しつつも、この瞬間を一生忘れずにいようとも思ったりした。
 目指すはJ2優勝しかないし、もっと端的に言うなら全勝優勝が命題。それが可能な選手層をセレッソ大阪は保ててもいた(嬉しいことに森島寛晃も西澤明訓も大久保嘉人も残ってくれたし、出場機会を求めて何人かの素晴らしい選手たちの加入もあった)。
 確かにトップリーグと比べてメディアの露出も減るだろう。イコールそれは観客数の激減をも意味している。そのなかで”一年でJ1へ”の合言葉だけが独り歩きしている感も確かにある。それは事実だけど、強い気持ちを持っておかないと、心が持たなくなる恐れも多分にあった。
 ぼく自身も時間的制約のなかで仕事とサッカーの両立を目指す一年となるのが明白だ。サッカーオンリーの人生なんていう思いはまったくなかったし、社会との共生こそがサポーターとしての人生をひと回り大きくしてくれるのだともぼくは思っていた。
 寂しさの連続だったけれど、ひとつだけ嬉しさを挙げるとするならば、リーダー的資質を持った若いサポーターがあっちこっちで生まれていたことだ。だからこそ、しっかりとサポーターとしてのライフをより明確に伝えていかなければならない。
 このJ2での戦いはセレッソ大阪サポーターにとって大事なターニングポイントになるだろう。そんなことをぼくはしみじみと考えていた。もう一度ここからなにかを残していかなければならない。而立のときをぼくは懸命に過ごしていた。

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