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「ありがとう」は、一粒のあめ玉。(1/28執筆)

高校生の頃、学校へ持っていくカバンに教科書とともに必ず入っていたものがある。
100円ショップで買った白黒のギンガムチェックのポーチに、いっぱい詰め込んだあめ玉だ。
もちろん自分で食べる用でもあるが、それだけではない。
ちょっとした時間に友人に配って話のタネにしたり、
ノートを見せてもらったり、ペンを貸してもらったあとにお礼として添えたり。
話したことのないクラスメイトも、あめ玉をきっかけに仲良くなることだってあった。
あめ玉は、当時の私の社交術のひとつだったのだ。

あれから5年経った今、「あめ玉コミュニケーション」をする習慣はなくなってしまった。
なぜなら、その代わりになるものが見つかったから。

初めて話す人にも、
助けてもらった友人にも、
お世話になった先生にも使える、
お金もポーチもいらない社交術。

それが、「ありがとう」である。

どんな些細なことにも「ありがとう」と言うことで人を笑顔にできると気づいた私は、「ありがとう」をとにかく振りまいた。

教えてくれてありがとう。
調べてきてくれてありがとう。
プリントを渡してくれてありがとう。

ありがとうと言われて嫌な気分になる人はいないだろう。
はじめは驚いた表情になる人も、だんだんと笑顔になる。
それが嬉しくて、さらにばら撒く。

今なら「ありがとう」マスターと名乗れる、と自負できるほどになったが、
先日ふと、おかしなことに気づいた。

「ありがとう」が、
「有り難く」なくなっているのだ。

ありがとうを言うことが当たり前になるあまり、それはもうただの意味をなさない音のかたまりに成り果てたような。
いつの間にか、心のこもっていない空っぽのありがとうをばら撒いていたのかもしれない、と。

つまり、私はあめ玉だけに飽き足らず
あめ玉の入っていない包み紙までもばらまいて、1人でいい気になっていたのではないか、と思い至ったのだ。

ゾッとした。
良かれと思っていた発言と行動で、不快な気分になった人だっているかもしれない。
私の思慮の浅さと軽薄さが、白日のもとに晒されたような気分になった。

それを裏付けるように、
今までの私は心から感謝している相手にほど、
「ありがとう」を言っていなかった。

友人にあめ玉を配っていたあの頃。
あめ玉は自分のお小遣いから買っていたので、ポーチの中身が少なくなってくると
本当に感謝している人に渡すために取っておいていたのを思い出した。

「ありがとう」は、タダではない。
自分のお小遣いを使ってまで渡したかったあめ玉のように、
"感謝"という気持ちを自分の心から支払わないと、相手の心にきちんと味わってもらえないのだ。

この記事を投稿したら、
最も身近にいる、心から感謝する人への、とっておきのあめ玉をプレゼントしようと思う。

「いつも支えてくれてありがとう」

という、とびっきり甘いあめ玉を。

#記事 #コラム #日常 #ありがとう

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