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誰かのいちばん l オフブロードウェイミュージカル -bare-

2月8日 13時 草月ホール
脚本:ジョン・ハートミア / デーモン・イントラバルトーロ
演出:原田優一

ジェイソン:安井一真
ピーター:田村良太
マット:神田恭平
アイヴィ:茜屋日海夏

観てみたかったオフブロードウェイ。
安井くんの歌を聞きたいなという思いもあり、行ってきました。

結論から言うと、誰も幸せにならなかったよね。
ブロードウェイって華やかで前向きな印象が強いというか、私が勝手に持ってる偏見なんですが、そんな感じだと思ってたので、2幕の頭くらいまではどんでん返し的なことが起きて何人かは幸せになるのかなって思ってました。
でも見事に全員幸せにならなかったよ。逆にリアルでしたね…。

すっごいひどい言い方をすると、ジェイソンが多方面でやらかしすぎた上の自滅の物語なんですけど、彼が、彼らがそこに至るまでに、何を感じ、思い、望んだのかが結構リアルで既視感のある感覚だからこそ、観劇後に付き纏う孤独の空気がすごかった。

ジェイソンもピーターもずっとレールから外れることが怖かった。
けれど、ピーターは一歩踏み出す決意をした。
アイヴィは見た目じゃなくて中身を見て欲しかった。偏見なくただのアイヴィを知って欲しかった。
ナディアはレッテルを張られ続ける自分の本質を見抜いてくれる人を待っていた。
マットは2番手じゃなくマットをいちばんに見てくれる人を探していた。

全員に共通するのは、強い孤独感の中の承認欲求。
自分を見て欲しい。自分だけを見て欲しい。

誰かのいちばんになりたい。

ただそれだけなんですよね。この感覚すっごいわかるなって…。
自分じゃなきゃダメなんだっていう居場所を、10代の自己形成期の少年少女ってすごい探すと思うんです。
わたしはこの部分で過分につまづいてしまって、一般的なレールからは外れてしまったのだけど、この、みんなが歩めるレールを外れるのってめちゃくちゃ怖いんですよね…
だからアイヴィの困惑もわかるし、マットがジェイソンとピーターがゲイとバラした時の周りの反応もわかるし、何よりジェイソンの前にも後ろにも行けなくなってしまった、閉塞感からの衝動的に死を選んでしまうのもわかるんですよ。

これ感覚の話なので、わかんないよと思う人もいると思う。
けれど、わかんない人はそのままでいいし、いて欲しい。
わかる人はただ寄り添ってあげて欲しいなと思う。

観劇後のツイートなんですけど、本当この通りなんですよね。
bareのスペルが間違ってるのはごめんなさい。

ジェイソンは誰よりも優しくて、弱くて臆病だった。
だからこそ後ろ指刺されてもピーターと共に歩く決意ができなかった。なんでもできる人気者の地位を手放せなかった。
彼は神父に相談して寄り添ってもらえなかったのも、ナディアの手を振り払ってしまったのも、何よりピーターを信じきれなかった。そこが悲劇で、その孤独に対して、向き合う術も乗り越える強さも持てなかった。
これ誰が悪いんじゃないんですよ。おそらく育った環境が、周りの友人の環境がそうさせているので…。
でも、アイヴィの手は振り払って欲しかったと願ってしまう。
そこが分岐点ですよね、彼は…。前にも後ろにも行けない。行こうとすれば何かを捨てなくちゃいけない。何かを諦めなくちゃいけない。それが怖くて、恐ろしくて出来なかった。

ジェイソンの唯一救われたところは、彼の死を悲しんでくれる人がいたことかなと思います。

ピーターは強い人ですね。
というか彼は強い人になりました。
もともと恋に恋する的なところはあっただろうけど、それを強さに変える力を持った人なんだなと思います。わたし個人的にはこういう強さをあの時、10代の自分も持ちたかった。
少しだけ寂しいのは、彼は少しだけ愛すること、愛されることを諦めてしまった感があるなってことです。
自分がゲイだろうとんなんだろうと、ピーターとして祝福されたい。
本当にただそれだけなんですよ。でも、社会が、常識が邪魔をする。
それでも、決意をした。後ろ指刺されようと前を向いて歩いていく。だから一緒に後ろ指刺されながら隣を歩いて欲しいとジェイソンに願ったピーターに幸せを祈らずにはいられなかった。けれど、その時にはもう遅くジェイソンはアイヴィの手をとってしまったんですよね。

ピーターとシスターの最後のシーンが好きです。
「ゲイも黒人も抱えてるものは同じよ。」このセリフにどれだけ救われたんだろう。思考も経歴も違う、でもマイノリティという立場では同じシスターが、1人孤独に耐え続けたピーターにかける救いの言葉です。

彼女にこの言葉がなかったら、最後のシーンでピーターは神父を許せなかったと思う。
誰かに寄り添うことっていちばん難しい祈りだとわたしは思っていて、だからこそそれを選択したピーターの未来が幸せだと嬉しい。

余談ですが、祈りの話はNo,9の感想で書いたので興味があればどうぞ。

そしてアイヴィ。
アイヴィはこの物語の後どうしたんだろうって思いますよね。産むのかな。
彼女はさみしい人なんでしょうね。見た目がいいので、人に愛される。簡単に愛してもらえるから、本当の愛ってなんだろうが拭えない。
そんな彼女が愛したのって自分じゃない誰かを愛してる人なんですよね。正直いうとアイヴィみたいな子は苦手です。自業自得だなとも思ってます。これが同性のひがみだと言われた否定はできないけど…。
多分だけど、アイヴィはジェイソンに好きな人もしくは付き合ってる人がいるの気付いてるんだろうなって思います。そして少しすれ違ってることも。
でも、自分が求める人だから、幼馴染みだから自分の見た目じゃなくて中身を愛してくれると信じて、手を伸ばしたんだろうなって。

アイヴィは本当にジェイソンが好きだったのかなってのはちょっとだけ気になってます。彼女のシングルマザーになんかになれっていうの?のセリフが悲しくて、彼女は自分を一番に愛してくれる人がいる自分になりたかっただけなんじゃないかなって。
好きな人より自分を選んだ。そうまでして自分をいちばんにしてくれる人に愛された自分というものが欲しかった。それが自分という人間が見た目だけじゃないという証明になるから。という目で見てしまうんですよね。エゴだなって。

だから子供ができることに慌てる。
みんなから愛される可愛いアイヴィは若くしてママになるというのが許せないんじゃないかなと…。
なんとも言えないですけどね、彼女の気持ちは彼女しかわからない。
でもそんな彼女にナディアがずっと寄り添っているのが本当に優しくて苦しいなと思います。
この物語の後、卒業した彼女は意図せずレールの外を歩かなくてはいけなくなってしまった。アイヴィがいつか、ピーターやシスターのようにマイノリティの枠に入ってしまった自分ごと愛し、寄り添える人になるといいなと思います。

そんな3人の愛憎混じった、承認欲求の物語。
マットもナディアもそれぞれ誰かに見つけてもらいたいという思いが強いですね。

わたしナディアの太ってるからこういうキャラを演じられることを無意識に強要されているのが結構辛くて…
見た目じゃなくてもいますよね、しっかりしてるからこの人は大丈夫みたいなレッテル貼られて気にかけてもらえないとか…

こういう無意識なレッテル貼りに苦しめられてる人って結構多いと思うんです。
去年Juice=Juiceの「ひとりで生きられそう」ってそれってねぇ褒めているのという曲が話題になった時も、その歌詞に共感が集まったからってのもあって、自分に周りの「この人はこういう人」に苦しめられるの万人が持つ感覚だと思うので、ナディアに対してすごく共感してしまいました。

物語の中では彼女だって自分が主役になりたい。でも自分の人生ですら脇役を強いられるというジレンマが辛いなって思うんです。
きっとこれはナディアだけじゃなくて、ジェイソンもピーターもアイヴィもマットもみんな持ってる感覚なんでしょうね。
わたしこの物語を見終えたあとに自己形成期における承認欲求による悲劇と思ったのですが、その感覚はここからきてます。

わたしは10代の学校という狭い世界の中で、自分てなんだろうと考える時に、ありのままの自分をただ肯定して寄り添ってくれる存在が欲しかった。
この物語はきっとその存在にそれぞれが手を伸ばして、求めて、届かなくて、少しの諦めと、少しの希望を感じるお話なんだなと思いました。

誰も悪くない。でも全員悪い気もする。
誰かのいちばんになりたいと思うことは、そんなにも、人の命を失ってしまうほど難しいことなのか…と、色々考えさせられました。

でも、わたしにとってこうした孤独に向き合う舞台作品はとても大好きで大切だと思うので、これからも観続けていきたいです。

おまけ
Juice=Juice
「ひとりで生きられそう」って それってねぇ褒めているの