見出し画像

自分は何者か|舞台刀剣乱舞天伝 蒼空の兵-大阪冬の陣-感想

1月31日16時
2月7日11時→中止
2月9日16時15分
2月17日11時・16時15分(配信)
3月18日16時15分
3月28日16時15分(大千秋楽)

IHIステージアラウンド
脚本・演出 末満健一

※公演中の作品ですのでネタバレにご注意ください。

3年ぶりにステアラに行ってきました。なつかしいですね。
あんなに更地にポーンとあったステアラの周りにいろいろできててびっくりしました。そもそも豊洲市場ができてたしね。

そんな感じでずっと見たかった末満さん演出の360度回転劇場ステージアラウンド。毎日でも通いたいくらい楽しんできました!

画像1

はじめに

「自分は何者か」
末満さんのこの問いかけが見える作品が好きだと公言してきた自分にとって、刀ステでこの題材が観れるのは嬉しい限りです。

悲伝を経て、日々の連綿を紡いだ慈伝、そして物語りのパーツを散りばめていく維伝・綺伝(科白劇)と、どんどん集大成と言っていた悲伝へ邂逅するように、謎のパーツと少しの手の見せ合いがされてきました。面白いですね。

舞台刀剣乱舞は「戦い続ける座組」
切磋琢磨しながら、己と、役と、物語と戦う。そんな意味がある座組です。

わたしはこの座組がすごく好きなのですが、物語と戦うために、役を知らないといけない。自分が演じる役は何者なのかを知らないといけない。だけど、その役を知るには己を知らないといけない。だから己も、役も、物語に対しても戦い続ける必要があるのだと思っています。

今回、直球で描いた「自分は何者か」の問いかけ。
記憶のない一期・鯰尾・骨喰、魔王に囚われる宗三とあの時代に縁の深い刀達と、頼もしい初期刀組。

歴史の人物と、刀である自分と。
悩み苦しみ、戦い抜く。どんなことが起きて、何を失っても。
そんなことを見せてくれた、見せつけてくれた天伝。

1年前は維伝を楽しくACTで上演していたなと思い出されます。1年で様変わりしてしまった世界の中で、物語が、演劇が持つ力を強く感じました。ありがとう。

逸話と諸説のはなし

黒田官兵衛の黒幕感がすさまじいですね。
本当誰ですが?ジョ伝を番外編扱いした人!!!許さんぞ!笑

時間軸としてはジョ伝(助伝)後の悲伝前。といいうことで黒田官兵衛が仕込んだ歴史への挑戦状が少しずつ機能し始めた感じでしょうか。
官兵衛こと如水さまは科白劇で放棄された世界は始点があり終点があると言っていました。その先に行きたいのだとも。

ある意味で三日月と同じ轍を踏んでいる黒田官兵衛ですが、彼が三日月と違うのは彼は人であり歴史を渡ることができないということでしょうか。

そんな官兵衛が残した草のものからの報告の書。
おそらくジョ伝の最後の戦いの前「跛行する行軍じゃ」のとこまでの記録があったのだと思います。逸れますけどこのシーンの山浦さんほんと素敵ですよね。ジョ伝のリリイベで末満さんがジョ伝の好きなシーンにここあげてましたね。わたしも好きです。

官兵衛の残した書と、捕らえられた阿吽の時間遡行軍。弥助がそこから思いつく「諸説へ逃す」という歴史の改変。

ここで気になったのは「諸説」の捉え方と逸話の「強さ」です。

2幕で大野治長が「諸説とはことの真偽がわからないから諸説なのだ。歴史はそれを知らなくて良い」というセリフがあります。

刀ステって例えかつての主が死ぬ歴史であっても、それを守る過程で主を殺す人を守らなくてはならなくなっても「ただ起きたことが積み上がる歴史を守る。」それに尽きるんですよね。これは虚伝から変わらない。「まさか俺が明智光秀を守るなんてな」っと言った不動のように、それがかつての主人の死であっても、死する歴史ごと守る。という考えが徹底されてる気がします。いいですね。

だからこそ、山姥切国広が言うように積み上がった事実が歴史となる。「かもしれないは許されず、ただあることをただあるがままに守る。」となるのだと思います。そうやって紡いできた歴史の上で存在する刀剣男士だからこそ「これが本能」って定義なのかもしれないですね。

弥助は起きた歴史を、積み上がった事実を肯定できない。だから朧なのかなと思いました。維伝も科白劇も起きる歴史・起きたはずの歴史を肯定できない歴史人物たちが「朧」と形容される。事実ではなく「かもしれない」の物語にすがることで自分自身が何者かということが薄らいでしまうのでしょうね。

もちろん「そうだったかもしれない」の逸話が刀剣男士を作ることがあるのは、今剣などで証明されていますが、それは逸話の強さが数百年の時を超えて得た力です。逸話も真偽はともかく、ただ【逸話があるという事実】が歴史となり力を得たととらえられるのかなと。だからこそ逸話から刀剣男士が生まれることにも説明がつく。

そして「お前たちの付け焼き刃の逸話と俺たちの逸話を同じにするな」と怒る山姥切国広。彼自身も逸話に苦しめられている人ですが、それ以上に「逸話として伝えられ続けた歴史」の上に存在している人でもありますね。だからこそ「逸話」の重みを、強さを知っている。

弥助や真田が行った刀に逸話をつける戦いは「刀剣男士という歴史の守り人」を斬った逸話をつける。だけど人が語り継がない逸話、逸話のための逸話に意味はなく、人を媒介して語り継がれる事で逸話となり得る。モノが生まれ、語り継がれ、思われる事で刀剣男士となり得ることができるという定義には外れてしまいます。

だから逸話が弱い。逸話に込められた物語が弱い、逸話に込められた思いが弱い。これが弥助が刀剣男士を完全な形で顕現できなかった、真田が真田十勇士の刀を顕現できなかったに繋がるのではないかなと思います。

弥助が顕現をする時「審神者よ、心を励起する力を与えたまえ」って言ってますね。審神者が励起するのは刀剣男士ではなく、刀の逸話に込められた人の思い(心)だとしたら。強い逸話を基にする、または選んで顕現するのが刀剣男士ってことですね。

維伝で、南海が刀工の逸話が強い姿で顕現したって言ってたました。彼らは逸話を選ぶんです。選べるほどに多くの強い逸話を持っているのです。それが刀剣男士なんだんと思うと、強い逸話がなければ顕現できないのも納得がいきます。

話はそれますが、逸話を選んで顕現する刀剣男士といえばわたしは「山姥切長義」を思い浮かべます。彼って「本作長義」の名前で顕現もできるはずなんですよ。
長義作の傑作、多くの写しが作られた南北朝の名刀として、逸話を選ぶこともできた。けれど彼は「山姥切長義」として山姥切国広の本科であるという逸話を強く選んで顕現したんだなと。
原作でちょうど加州の特命調査もやってましたが、御前ごと「一文字則宗」にも同じことが言えますね。後の世で語られる「菊一文字」としての逸話。正直わたしも刀剣乱舞始めるまで沖田総司の刀は「菊一文字」だと思ってました。

そう考えると複数の逸話の中で自分を定義する大きな軸となる逸話を選んだ2振りが「監査官」という役職を与えられているの面白いですね。

話を戻します。
強い逸話があるから顕現できる刀剣男士。
弥助の強い思いに応えた、かつて織田にあった刀は思いはあっても逸話が弱かったのかなと思います。悲しいですね。
対峙する中で「こいつに戦う力はない」という山姥切国広が少し切なく感じます。

逆に強い逸話がたくさんある刀はどうなんでしょうか?
個人的に面白いなと思っているのは「三日月宗近」「鶴丸国永」の二振りなんですが。ともに多くの主を転々とし、歴史の表舞台にいた刀です。特に三日月は。
鶴丸は「多くの主を転々とした逸話が顕現体にも現れている」と維伝で南海から言及がありましたね。
鶴丸って「多くの家を渡り歩いた」ということそのものを逸話として取り込んでいるんですよね。
三日月はどうなんでしょうね。多くの人に求められた最も美しいとされる天下五剣。彼の物語は多すぎて、だからこそ三日月は「自分は何者だ」に答えが出せないのではないのかなと思いました。

悲伝の感想で書いてるんですがこの迷いが、三日月を中心とした結いの目を生むのかなと。

だからこそ自分とはを肯定できなかった三日月宗近という存在がひどく儚くて切ないです。三日月を取り囲んで、三日月を破壊するために戦うみんなの中で、必死に止めようとする山姥切国広には、三日月の中に自分とはという迷いがあったのを気づいてたんじゃないかなと思います。それは記憶がないから自己を形容できない骨喰も同じかなと思います。山姥切国広は写しだから、骨喰藤四郎は記憶がないから自己を肯定できない。でも山姥切国広は、彼のセリフを借りていうならば「俺は、俺だ」と自己を肯定するんです。そのための序伝からの歩みです。どうして、三日月宗近と最期に対峙するのが縁の深い骨喰ではなく山姥切国広なのかはここが理由なのかなと思いました。

今作ではそんな逸話の強さの概念と諸説に関しての話をたくさんしてもらいました。諸説が強くなると歴史の本筋に強度が下がる。歴史の糸が解けやすくなって結いの目ができてしまうのだとしたら、三日月はたくさんの「かもしれない」の中で「自分は何者か」と考え続けているんでしょうね。

そしてその答えを知ろうとするために結いの目ができてしまったのかもしれないですね。「高野山に奉納されたかもしれない」「永禄の変で使われたかもしれない」「江戸時代で押形されたものと東博に所蔵されているものは違う刀かもしれない」などなど「不殺の刀だったかもしれない」「あの時にはここにいたかもしれない」とか、たくさんある逸話で室町時代から「名物中の名物」と言われ続けていた刀には多くの思いがある。ありすぎるくらいに。

だからこそ自分を定義できないのかなと思います。
今作で、この後に書きますが一期一振が、同じ豊臣にあったとされるこの刀が「自分は何者だ」を定義する中、すごく惨酷な対比だなと思いました。

无伝が楽しみですね。


秀頼と一期一振りのはなし

まず、小松くん!まさかの人間役で出てきてびっくりです。
小松くんと言うとあんステの初演で足の長さにびっくりした記憶がいまだに鮮明です。笑

秀頼といえば、序盤の太閤左文字劇場が面白くて大好きなんですが…笑
家康と秀頼のテンポがあまりに良すぎますよね。

「豊臣さん家の秀頼くん!とっても男前!!」
「うつわ〜!」\でっかい!でっかい!/

みたいなね…笑
あれずっと見てられる。楽しい。

というのは置いといて、やっぱり彼らの名シーンは1幕ラストなんでしょうね。

「場を取り繕う言葉は要らぬ。お前は何者だ」
ここで「わたしは、一期一振」と名乗りを上げる一期の覚悟が、強さが、孤独が、美しくて素敵でした。

秀吉の語りがとても気持ち良くて、「生まれながらにして天下人である秀頼を想う。あの子の孤独を想う。」のセリフにあったように、一期も兄としてあることをある意味定められている、天下人の刀であったことを定められている。記憶がなくてもそうであると、それが苦しく孤独で自己を肯定する上で障害になると知っている。

秀頼も、一期も「自分は何者だ」の問いに答えを持っていない。
けれど2人は、2人だからこそたどり着くんです。それが1幕ラストのシーンです。己に偽らず、自身の言葉で自分の正体を明かす一期と、その思いに応える秀頼。

人の想いが物語る存在の刀剣男士の言葉が、秀頼の物語に力を与える。
強い物語を持っている存在である秀頼の言葉が、一期一振の根幹に力を与える。

すごい相互作用だなと思いました。正直一幕ラストはこみ上げるものが多くて泣いてたんですが、純粋な感情の揺らぎというのはこちらも引き込む力があるんだなとまざまざと感じました。

秀頼の自身は「秀吉の子であるということ」を受け入れた上で、自分は豊臣秀頼だと肯定する。秀吉の子は普遍の事実で、それを含めて「豊臣秀頼」として生きる。

一期一振の「自分は兄であり、豊臣秀吉の刀」ということを受け入れた上、主人が滅びゆく歴史をも守る刀だと自己肯定する。

とても心震える2人のやりとりです。
そして二幕で太閤がこの2人を「蒼空のようだ」「蒼空のように広い心を持っている」と形容するのがいいなと思いました。

強大すぎる「天下人、豊臣秀吉」という存在を受け入れた大きな器を蒼空と形容する。雲ひとつなく晴れ渡る蒼空のような心を持った兵(つわもの)である。
豊臣秀吉の刀であった事実(歴史)であることは不変である。だからこそそれを踏まえた上で自分を何者かを見つめる。きっとそれが強さなのでしょうね。

物語の最後に山姥切国広に「あなたは何者か」を問いかけるシーン。
一期が「兄であること、豊臣の刀であることが一期一振なんだ」と自己を肯定し、山姥切国広は「写しであることは変わらない事実」と自己を肯定する。
正直山姥切国広の極めてないのにこの境地に辿りついてるのも一つの伏線のような気がしてしまいますが…笑
それ以上に、自身が何者かであるかを受け入れられるのは物語を受け入れることにつながる強い意識の現れなんだなと思いました。

天伝の一期の最後のセリフ「どこまでも蒼い、蒼空の兵です」がとても好きです。天伝を経た一期・鯰尾・骨喰がどうか、自分を肯定できますように。

家康と加州清光のはなし

加州清光の描き方がここまで素敵だとは予想してなかったです…。
個人的に今作MVPです。加州がすごく好きになりました。

まず山姥切国広に対する態度がいいですね。
彼が国広を「かまってちゃん」と形容するのが好きです。わかる。

本質的にかまってちゃんだからこそ、三日月が山伏が、長谷部が国広を支えようとする。ちゃんとわかっているのが清光のいいところですね。

いわゆる初期刀組の会話といえば慈伝の東京凱旋の時も印象的でしたが、彼らは審神者が唯一選べる刀という意識があって、その上で互いを尊重し支え合い、本丸を繋ごうとしているのが垣間見れて嬉しいですね。

国広くんと清光くんわりと演者的にも仲が良い2人なので信頼感が溢れ出ていいなと思います。いいよね。

そんなかっこよい加州ですが、後半にとんでもない見せ場がありました。

家康との殺気溢れる対峙戦。
「あんたが作る時代の先には、あの人がいる。だから死なれちゃ困るんだよ!」
この言葉に、定められた歴史のままに死んでいく人々への敬意と救いを感じました。

家康が作る時代の先にあの人がいる。歴史が連綿と続くものということを本質的に理解してる。続く時代の先に大事なものがある、大事な人の存在を知ってる。それが加州の強さで、覚悟で、愛おしいとこだよね。

しかもそれを家康に納得させるのに用いるのが言葉ではなく刀なんですよ。
秀頼と一期が互いのことを言葉で肯定しあったように、家康と加州は刀を持って続く歴史の重さを伝えるんですよ。
悲伝と慈伝で「俺たちは刀だ。刃持ちて語り合おう」というセリフがあるんですが、それを体現したのが今作の加州ですね。

加州いちいち格好いいんですよね。
そもそも演じる松田さんが動ける方なので、全くもって心配はせず、ただただ楽しみだったので、満足感が強いです。

ボロボロになりながら刃を突き出して「生きろ」と叫ぶ。
家康と清光のクソジジイと孫感がそこに面白さを増してくる。加州のちょいちょいメタっぽいというところも踏まえて、歴史ものと現代をつなぐ中間に彼がいるので気持ちも入れやすいですね。

そして彼はちゃんと自分が何なのか理解してるんですよね。
その上で周りをよく見てる。国広へのかまってちゃん発言とかは最たるものですね。そんな清光が、しっかりと山姥切国広が背中を預けられる存在としてあること、一期の豊臣軸、山姥切国広の真田(弥助)軸、加州の家康軸と3つの軸が入り混じる本作で加州が軸として成り立つことが嬉しい。

そんな感じで見てました。もっと内容に突っ込んだ話とかも書きたかったんですが、野暮かなと。
とても素敵な物語を見せてくれた松田さん演じる加州がまた見たいです。


山姥切国広のはなし

さてお久しぶりの、荒牧さん演じる山姥切国広。待ってました。
刀ステの山姥切国広のにじみ出る生意気感がすごい好きです。今作はそれが如実に出てて生意気〜!よい〜!と思いながら見てました。いいよね。

そして明かされる新事実。
慈伝の後修行の旅に出たまま帰ってこない。そして太閤が言いかけた「物語を初めから〜」の言葉。とっても気になりますね。

そもそも、極めるための修行って何でしょうね。原作ゲームをやっててもいまいちよくわかってないアホさ加減なのですが、極めのための修行は「自分を肯定する」ための旅だと思っています。

自分の逸話を物語を、それに含まれる人の思いを見て感じて全てを肯定してかつ「これが自分だ」として帰ってくる。その意識こそが、人の思いで励起した刀剣男士をより高みへと押し上げるのかなと。
物語(逸話)が強いことで、顕現する。その逸話をモノではなく人の器、心を持った刀剣男士が見つめ直し、定義することで極となるって解釈すると面白いなと。

ただ、山姥切国広は「写しであることは変わらない事実」だって極みたいなことをこの時点でいうんですよね。慈伝でめちゃ強いのも極める前にこの考えに至ったからなのか。だとしたら自己を肯定し見つめ直し極める旅路はどこにいくんでしょうか。

というのが一つの物語の伏線の気がします。
維伝での遡行軍姿・そして今作の旅路から帰ってこないこと「物語を最初から〜」の発言。

「俺は俺だ」と常々自己を肯定する山姥切国広が、見つめ直す物語にはなにがあるんだろう。三日月との約束「次はさらに強くなった俺が相手になろう」というセリフ(悲伝の千秋楽です。千秋楽以外は「次は勝つからなクソジジイ」みたいな感じ)のようにさらに強くなるための旅なのでしょうね。

これは個人的な意見で解釈なのですが、刀ステは確かに逸話を、刀の紡いできた歴史に重きを置いていますが、それと同様に顕現し、人の身を持ってから紡いだ歴史(物語)にも重きを置いているのだと思うんですよ。山姥切国広の近侍としての成長もそうですが、慈伝なんかはもろだなと思います。とくに同田貫とかね。頼りない近侍と思っていた国広を傷つかないように長義に合わせないようにするとか。鶯丸の「明日に月はなく、日々の葉よ散るらむ」の言葉とか。

人の身を得て紡いできた物語も、自分たちが愛し、守るべき歴史となる。
それに重きを置いて自分を見つめ直しても、きっと自分というものを見つけることができる。そう言ってるようにも感じます。

自分が何者なのか、求められる逸話の強さに自分を見失ってしまった三日月に対して「俺は俺だ」と肯定する山姥切国広が対峙する。
そんな山姥切国広が三日月に言いたいことは、同じ本丸で過ごした時を思う。その物語を思う。ということだといいなと思いました。

さて、山姥切国広に関してはもうひとつ。

定められた歴史を強いてきた。失うことを強いてきた自分たちが失うことから目を背けることはない。

かっこいいですよね、このセリフ。
ジョ伝で山伏が折れたときに「こんなことがあってはならない」と言っていた人と同じ口から出るとは…!という驚きと成長を感じました。失っても前に進む覚悟がある。きっとその覚悟がなければ、定められた歴史をそのまま受け入れて守るかとはできない。だからこそ歴史を守ることは本能なのだなと思いました。

失うことを恐れずに、前に進む。
前に進むためには確かに苦しくて悲しくて、足が止まってしまうこともあるかもしれない。でも本丸のみんなが、主が、失うことをも恐れずに戦い続けている。だから自分もその覚悟をするという意味にも捉えられて、本当にいい本丸になったなと思いました。

その言葉通り、失うことすらも受け入れて前に進む物語を紡いでほしいし、みてるこちらも覚悟が必要だなと思いました。

最後のまとめに行く前に、せっかくなので。
天伝、実は最前列で観劇する機会をいただきました。正直ステアラの最前は見にくいです。だけど、これだけの殺陣を近くで見れて本当に迫力に圧倒されました。個人的に荒牧さんの殺陣が好きなので布のたなびく具合とか本当に風を感じるようですごかったです。ラッセーラ!で滝の中から飛び出てくるのちょっと面白いですね。迫力満点、そしていつも目の上がキラキラのかわいいまんばちゃんみれてよかったです。


最後に

思ったより長くなってしまった天伝の感想。
正直まだまだ書き足りないので、どこかで書きたいですね。特に真田の話とか。

いろんなことが世の中で起き、いろんな制限がかかりました。
そして座組みも史上最大級の挑戦ということで思いがけないことも起こってしまいます。それでも、物語を紡ぎ続ける、届け続けると覚悟し上演してくれる座組には感謝でいっぱいです。わたしができるのは、ただ楽しんでみることのみ。これからも応援を続けたいなと思います。

天という漢字には「あおぞら」という意味があるそうです。物語の終わりに一期が声高に言った「どこまでも蒼い、蒼空の兵です」の言葉のように、強い物語を刀ステの本丸の刀剣男士(つわもの)たちが紡いでいくことを、彼らが繋いだ物語の先に己が何者か、みんなが胸を張って言えることを願ってます。

--------------------------

虚伝 燃る本能寺
義伝 暁の独眼竜
外伝 此の夜らの小田原
ジョ伝 三つら星刀語り
悲伝 結いの目の不如帰
慈伝 日々の葉よ散るらむ
維伝 朧の志士たち
科白劇 改変 いくさ世の徒花の記憶
天伝 蒼空の兵-大阪冬の陣-(これ)

--------------------------

おまけ

真面目な感想を書いてしまったので、緩い感想を入れられないので最後の蛇足として置いておきます。多分増えるので増えたら記事分けますね。

①ステアラ
個人的に刀ステをステアラで見たいマンだったので、天伝・无伝と実現がとっても嬉しいです!
これは維伝公演時に行ってたステアラでやって欲しい願望のツイートです笑

こっちは末満さんのツイートで新しい会場を見てるよって言う報告にテンションが上がったツイートですね。懐かしいな。

②太閤左文字劇場
両端可愛いがすぎません?
そもそも始まりの「しょうちのすけー!」のときに荒牧さんの「しょうちのすけ…?」で笑っちゃうのですが、ほんと明るくハッピーでわかりやすくていいですね。荒牧さん慈伝あたりから台詞を繰り返すことで笑いに変える力を得ましたね…!両端で鯰尾とかが混ざりに行くのを止めるのが可愛いですね。

③歴史のままに、お過ごし下さい
宗三の話が全然できなかった…。ついでに言うと鯰尾と骨喰もですが…。
宗三の「歴史のままに、お過ごし下さい」は作中でめちゃくちゃ好きなセリフです。
あるがままの歴史の重さをちゃんと知っている。だけど、歴史を未来を変えて天下を手にしたい人の欲を知っているそ宗三からこの言葉が出るのは、残酷だけど優しい祈りのような気がします。