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間もなく飛び立ち自由に…

久しぶりに従弟からのLINE。
「食べれなくなって点滴だけになったらどれくらいもつの?」

伯母のことだった。

伯母の認知症が始まったのは10年くらい前だったと思う。
伯父や伯母が認知症になることが多く、
私は伯母達の徘徊の時にそれぞれ1回ずつ探し回ったことがあった。
この伯母てつ子おばちゃんの時も随分と探した。
漸く見つかった時には夜も遅く、よくこれだけの距離を真っ暗な中、歩いたなぁとびっくりした。
当のてつ子おばちゃんは、ケロっとしていてち〜っとも困ってなかった振りをしていた。
その振りとは相反して、果てしなく歩いていた足は、パンパンに浮腫んでおり湿った靴も灰色に汚れていた。

この伯母…てつ子おばちゃんは、准看護師だった。
地元の公的な病院で働いていて、私は、当時、伯母と同じ病院で働いていた。
てつ子おばちゃんは、周りから聞くところによるとちょい怖めの看護師だったと。普段のおばちゃんから充分に想像できできた。
私が身内だからなのか、気を遣って、「でもてつ子さん、優しいところもあるのよー」と慌てて補足してくれていた。
「にゃむちゃんとてつ子さんが親戚なんて・・・全然違う真反対のタイプだね」ともよく言われた。

てつ子おばちゃんは、当時若かった私からみても不器用に生きているように見えた。昔からご主人とも全くうまくいっていないのにずっと同じ屋根の下に住み続けていた。
人ってこんなに結婚生活が破綻していても一緒に居続けないといけないの?もっと自由になればいいのにと若いながらにも思っていた。
子供達もいたから簡単なことではなかっただろうけどお給料もおばちゃんの方が多かったからおばちゃんは1人でも子供達を養っていける状態だったと思う。
田舎だから周り中、親戚で体裁もあったのかもしれない。

人とのコミュニケーションの際もなぜかてつ子おばちゃんは怒っているようにみえてしまう。表情がちょっと怖めなのでその分笑った時の笑顔はふにゃーっとなる。
誰に対しても愛情の注ぎ方をどうやったらいいのかわからないようだった。
コミュニケーションもあまり上手じゃないてつ子おばちゃんだけど、私は、家も近かったので時々おばちゃんを誘って通勤していたこともある。
3交代だったので私も夜勤が多く数ヶ月に1回という感じだったのだけど。
車の免許を持っていなかったおばちゃんはいつもバスで職場まで通っていた。
夜勤の時は大変だったと思う。
そんな車の中でおばちゃんはぽつりぽつりと話してくれる。今思えば貴重な体験。
仕事の話は殆どしなかったけど。
そして時には、自分で作ったレースで編んだ繊細な作品をプレゼントしてくれることもあった。
買ったものではなく手作りっていうのもなんだかいつものおばちゃんと違う一面を感じる瞬間でもあった。
時には達筆でメッセージも書かれていた。

その中には、「にゃむちゃんのことを同僚のみんなが褒めてくれるから私も嬉しいです・・・」というようなことも書かれていた。
私が褒められていることをおばちゃんが、我が事のように喜んでいてくれていることが私は嬉しかった。

定年してからのおばちゃんは、暇なのでしょっちゅう我が家にくるようになった。
私に会いに来るというよりもうちの両親に会いに来る感じで父の姉妹たちがいつもお茶しにきている。今も尚。

昔から愛想が全くない人だったおばちゃん。
子供が小さい頃は、夜勤の時にはいつも実家で寝転んでいて何もせず、子供達を母親(私の祖母)や嫁(うちの母たち)にお任せしていて、食事の準備は勿論、片付けもしないような生活をしていた。
だから嫁軍団はおばちゃんのことはあまり快く思っていなかった。

そんなおばちゃんが、退職後は、姉妹も含め嫁たちもいる中に入ってくる。
通ってきているうちに自分で漬けたらっきょを持ってきたり、気を遣うようなシーンもあり、ちょっとずつだけど変化してきているおばちゃんを見ることとなった。凄くちょっとずつ(笑)

それから随分経ち、てつ子おばちゃんの物忘れがどんどん激しくなっていた。
きょうだいで毎週お茶会をする曜日を決めていたけど違う曜日に来ることも増えてきた。
デイサービスにも行くようになっていたけどデイサービスを忘れて我が家に来たりしていた。
一方で取り繕いも多く、私は間違っていませんオーラもしばしば発光していた。

徘徊も何回か続き、ついにてつ子おばちゃんは、自宅での生活が難しくなり近くのグループホームへ入ることとなった。
最初は、なんで自分がこんなところにいなくてはいけないのか?!とめちゃくちゃ怒っていたらしい。
何ヶ月かしてからグループホームに会いに行った時には穏やかなおばちゃんだった。
「私、わかる?」と聞いてみると笑ってた。
名前は出てこないみたいだったので「にゃむだよー」と言うと少し思い出したのか安心した顔になった。相変わらずつっけんどんな対応だったけど。
(つっけんどん:調べて初めて知りましたー、これって関西弁なんですね。無愛想な様と言う意味)

何年かそこにお世話になっていたけど、数年前に老健に入所となった。

数年前にご主人も旅立ったけどお葬式には出たもののもう覚えていない

そして、今に至る。
そのてつ子おばちゃんが、今、老衰・誤嚥性肺炎などから経口摂取ができなくなってきて水分補給が目的の点滴につながれているのだという。

・・・・・・・・・*・・・・・・・・*

てつ子おばちゃんの人生を途中からしか知らないけど思い出す限り生きづらかった人に見えた。
もっと早くに自分を自由にしてあげればよかったのに・・・と。
どうしていいかわからない時に誰かに救いを求める勇気があったらよかったのに。
コンプレックスはあるけどそれを隠すかのようにプライドは高めの人だったからプライドや体裁が邪魔をしたのかなぁと思ったりもする。
子供を抱えて自分勝手に離婚も決断できなかったのだろう。
自分の気持ちをうまく表現する人ではなかったので今となっては知る由もない。家族すら。

でも不器用ながらも一生懸命生き抜いたのかもしれない。
それがちゃんと伝わっていたから子供達も今、旅立とうとしている母を自分たちの形で見守ってくれているのだと思う。

小さい頃からてつ子おばちゃんの生き方を見ていて私にとっては反面教師になっていた。
私の代わりにてつ子おばちゃんがこの人生を経験してくれて見せてくれているのかもしれない。

今、てつ子おばちゃんの想いが伝わってくる気がする。

色んなことを取っ払って自由になりなさい!と私に勇気をくれているように思えてならない。
まもなくてつ子おばちゃんも漸く自由に羽ばたける世界に行ける!!と思うとおばちゃんが楽になってくれることが嬉しくて不謹慎にもあっちに早く逝けるといいね♡と思ってしまう。

この点滴に繋がれている時間が長いのも辛い。
でも息子が会いに行けるまでもう少しだけ時間を稼いでねと願いながら。

あちらに逝ったら兄妹たちや両親が待っていてくれるね。
「なぜか、今回の人生では、後半戦はみんな認知症を経験したねー」なんて、お茶でも飲みながら話しているのかなぁ。

私にてつ子おばちゃんの人生を身近で見せてくれてありがとうございました。
そんな中でてつ子おばちゃんの優しさに触れられたのはラッキーでした。
優しさをありがとう!

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何年か前に認知症だった伯父のスピリチュアルな体験についてはこちら





ありがとうございます😭あなたがサポートしてくれた喜びを私もまたどなたかにお裾分けをさせて頂きます💕