放蕩パイセン

徒然に書きたいと思います

放蕩パイセン

徒然に書きたいと思います

マガジン

最近の記事

雑記

世の中、批評家気質というものを持っている人間がいる様で、そういう人間は表現をするよりも、その表現を解体して、どのようなもんであるかを解釈して見せる力をもっておって、そのような力を持つと、それ自体がひとつのメタ的な芸になり、人を惹き付ける魅力を持つのではあるまいか。しかし、難儀なものでこれが実作に於いては寧ろ弊害になる場合もある様で、例えばなにか他者に伝えようと言うとき、ただただ叫ぶより、理路整然と説明して見せる方が分かってくれる可能性が高くなるかもしれんが、それ故に本当に伝え

    • 荻生徂徠についてのメモ

      1.先王の道と天について 丸山真男の荻生徂徠観は、封建的な自然的秩序を是とする、朱子学の思想に対して批判を加えた思想家として召喚される。 自然的秩序の論理に於いて、秩序の中に置かれて居たとすれば、それを完全に転換される立場は当然気聖人にかかる内在性から救い出して、逆に秩序から秩序を作り出す者としての地位を与えねばならない。 丸山は常民を治る者、言いかえれば制度設計者の視点を持ち、自然的秩序を理とする主体的近代人として徂徠の顔を浮き彫りにする。しかしそれは徂徠の側面的な人

      • 市井の言葉と英雄の言葉

        人間が本質的に置ける立場は三つしかない。 市井の立場と英雄の立場と異者の立場である。この、三区分は、右翼や左翼、若者と老人、理性と感情と言った二項対立よりラディカルだろう。 「市井の立場」とは、言いかえれば、大衆の立場であり、それは自然的に内在する状態を引き受ける事である。従って、市井の立場はエリートによる扇動というモチーフである「英雄の立場」とは矛盾するよう「仮定的」には思われるかもしれない。しかし、事実、そうとは限らない。大衆が本質的に持ちうる感情は「英雄の待望」である

        • 今年の〈情況〉

          2014年は、どんな年だったかと、後世の人に問われたら、真っ先に私は「菅原文太が死んだ年だった」という言うだろう。 それぐらいに菅原文太が死んだというのはでかい。言うまでもなく、『仁義なき戦い』以降の実録映画の象徴になることで、菅原文太は同じく今年死んだ高倉健と並ぶ存在であろう。 だがしかし、これを以て「昭和は遠くなりにけり」と言ってしまう様な御仁をみると、いまだ昭和は終わりえないのだろうと感ずるばかりである。 例えば美空ひばり、例えば王貞治、例えば田中角栄の様な、「昭和の象

        マガジン

        • 修辞的、あまりに修辞的な
          3本

        記事

          並行軸に引きちぎられる人間『キャプテンアメリカ ウィンターソルジャー』について

          今作でクリス・エヴァンス演じるキャプテンアメリカは常に平行移動を意識したショットをとられながら、同時に、平行した2つの対立概念によって引き裂かれる存在である。 冒頭では、アンソニー・マッキ演じるファルコンを、颯爽と平行軸で追い抜き、海賊との戦闘シーンも平行軸を意識したかたちでとられる。この、並行軸のイメージは単なる表象としてあるのではなく、映画そのものの内容の中に食い込んでいるのではあるまいか。 キャプテンアメリカことスティーブロジャースは、己が信じていた自由の守護者たら

          並行軸に引きちぎられる人間『キャプテンアメリカ ウィンターソルジャー』について

          『転向論』を読む

          先ず初めに断っておきたいのは、転向論の作者である吉本隆明は、まあ解りにくい書き方をする。本当にこの人は自分が書いているものの意を分かっているのだろうかと思ってしまうほどである。ただ、吉本隆明という人が、それほどまでの「悪文」であるにも関わらず、なにかおれを掴むものがあるとするならば、それは彼の「情況を味方につける力」であろう。常にうつろい行く時間の流れを論理の地平線に於いて我が身につける、あるいは、それを洞察する力は、凡百の物書きにはない凄みがある。そもそも吉本が名をうった。

          『転向論』を読む

          菅原文太さんについて

          菅原文太さんが亡くなられた。まあおれみたいな小僧が菅原文太さんについて書くのも変な話だが、みなさんあまり書かない様なのでおれが書くことにした。 文太さんの映画は高倉健や鶴田浩二と違い、おきまりに束縛されない。高倉健や鶴田浩二の映画はいつも決まった型がある任侠道を重んじる極道が、対抗組織の嫌がらせに耐える。そして、例えば、親分が死んだときにブチギレて、対抗組織に乗り込み、ドスで皆殺しにする。そういうお決まりがあった。だけど、先ず文太さんは任侠道を重んじるヤクザをあまり演じなか

          菅原文太さんについて

          デスマスク百景〜修辞的、あまりに修辞的な〜

          あらゆる人間の死顔は安らかではない。 息を引き取った骸の顔は安らかであろう。しかしそれは人間ではない。人間、もっといえば生命というのは運動をする存在である。運動は単なる持続ではなく、持続が切断を呼びうるものとして運動は存在する。植物でさえもその点で、運動しているのである。生とは運動のことだ。死とは静止のことだ。静止は無常につながる。無常を知ったものは生きながらえて、骸になってしまった存在に近い。 人生に於ける真理があるとするならば、それは運動をすることだ。絶えず運動せよ。

          デスマスク百景〜修辞的、あまりに修辞的な〜

          修辞的、あまりに修辞的な

          氾濫する客観的立場、今日に於ける論理過剰の時代は、プラトンが批判したソフィストのそれではない。むしろの論理過剰を是とする者共の方こそがソフィスト的な詭弁を使い、退廃している。ソフィストは、価値判断の尺度の検討ではなく、他者を論破することのみのためにレトリックを使用した。そして現代に於ける詭弁家たちもまた論理を論破の道具として使用しているのだ。そして、かの詭弁家どもは論理性なき代物をいっさい認めようとしない。修辞とは、真理を見えにくくするものではなく、真理を頚髄化させる事によっ

          修辞的、あまりに修辞的な

          アチャラカこもんせんす②

          かつて、日本には〈批評〉という非常に特殊な表現活動が存在した。それは、〈いま・ここ〉に軸足を置きながら、そことはまだ別の抽象的な世界を構築せしめようとする、分裂した表現活動であった。 しかし、今はその様な形での批評は存在しない。〈批評〉を成立されるのは、〈いま・ここ〉という現実の視点を〈夢〉という己の可能性としか捉えられぬものに思考を膨らますことであり、この二律背反の「ヒリヒリとした緊張感」が無ければ、批評は存在しえないのである。 小林秀雄は「批評とは己の夢を懐疑的に語る事で

          アチャラカこもんせんす②

          アチャラカこもんせんす①

          私の生き方ないし考へ方の根本は保守的であるが、自分を保守主義であるとは考へない『私の保守主義観』 戦後の文芸批評家である福田恆存は保守を「主義」とはせず生き方ないし態度とした。あらゆる「主義」は、現実を説明する際に使う「枠」であり、主義とは背叛する現実を「不合理」であると否定する。不合理を否定する合理主義はあらゆる「主義」のなかに存在し、従って、あらゆる主義は、どのような言説であれ、その正体はすべて、プラトン持込みの現実否定の合理主義である。自由主義者は、共産主義や社会主義

          アチャラカこもんせんす①

          『騒動師たち』➀

          「別に革命なんかいう大それたことでないねん。もういちど、みな腹減らしてガツガツしてる面みたいだけや」 「書を捨て街へ出よ」と言うが、あの時代に、街へ出た若者たちが積極的に社会を「変えよう」として出たとはおれには思えない。むろん、此処でいう「あの時代」とは「アンポ、反対」とか言って学生が「運動」をしていた時代のことであり、「あの時代」の「小説」が、野坂昭如の「騒動師たち」である。別に彼らには「崇高な理念」も「ゆずれぬ信念」があった訳ではない。ただ、戦争がおわり、すべてが0かマ

          『騒動師たち』➀

          『人間・この劇的なるもの』を読んで、考えてみよう➀

          いきなりnoteを始めてしまったので、書きたいことが思い浮かばない。やっぱりこういう所でおれには「才がないんだなあ」と思っちゃうよね。仕方がないので、昔からの愛読書である福田恆存著「人間・この劇的なるもの」を読みながら、「感じたこと・考えたこと」について考えてみようと思う。 1.「演じる人生」 おれがこのとんでもない本を読んだのは、高校一年の頃で、そのぐらいの年齢だと自分の〈実体〉とはかけ離れた「夢」を夢想しちゃう訳だけども、そんな様な時期の人間には、衝撃だったねからね、

          『人間・この劇的なるもの』を読んで、考えてみよう➀