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レクイエム


2021年4月16日、父が亡くなった。66歳。別れはもっと遅く訪れるものと思っていた。父も私も向き合うのはずいぶん前にやめていたと思っていたが、昨日退会手続きをした父のTwitterアカウントには、使い方が分からなかったのかネットの虚空に向かってわたしに向けたと思われる情報が一通シェアされていた。リンクはもう切れていた。

思えば20歳のときも23歳くらいに大学院進学を決めた時も、まるで明後日の方向から父の助言が届けられていたことを思い出した。とにかく政治信条は反対、冗談はわかりづらくて嫌味っぽく、まともな会話は避けてきた。でも、似ている部分は否応なく認めざるを得ない。

たとえば、変なことにこだわって後に引けなくなるとか。父はあの北海道のスープカレーではなく単に水分多めのスープ状のカレーをスープカレーと呼んで、よくそれを夕食に欲しがった。

父の作ったスープ状カレーは当然美味いはずもなく、家族は押し黙って食べた。なぜなら、「まずい」と言うことが父を怒らせることはみんな知っていたから。父の食欲だけが、鍋底が見えるまで力を尽くした。


仕事を変えたり、配属が変わるたびに父は名刺を要求する。どんな仕事か尋ねることは僅かだったが、部屋には我々子どもたちの名刺が新しくなるたび張り出されていた。言葉は多く語らないけど、気にかける気持ちは伝わってくる。よくある父と子の関係といえるかもしれない。


癌が見つかってからはずいぶんと柔らかくなった。もう子どもを茶化しても仕方ないと思ったんだろうか。


余命1ヶ月からは本人の希望で在宅介護に切り替わり、元々月一回で帰っていたところ、職場に休みをもらい、ほぼ毎週実家へ帰り介護らしいことをした。家を出てから14年、こんなに滞在したのは始めてだった。

今になってよく思い起こすのは、トイレにへたり込んだ父に肩を貸して必死で立ち上がろうとしたときのこと。私たちを見つめていた飼い猫が、さも「混ぜて」というように飛びついて2人でやめろ!と言いながら一緒に尻餅をついた。

あるいは、ある晩ようやく痰を切ろうとする動きがおさまり(最後の1〜二週間はとにかく痰が辛そうだった)
背中をさすりつつ「おやすみする?」と尋ねるとぜいぜい言いながら「ちゅうする?」といったこと。
おやすみのちゅうをしたのは4〜5歳の頃だったと思うが。


父の冗談を聞いて、弟たちと久しぶりにまともに笑ったような気がした。いや、どうだろう、それまで笑うことができなかったのは自分だけだったかもしれないが。他にも、ここでは書けないような面白いことがいくつかあった。


父の余命1ヶ月は、新年度に日記を再開するように、心機一転、綺麗な文字で書き出したような日々だった。前のページとの違いは鮮やかで、ぎこちなく、でもおもしろい。そんな1ヶ月だった。

期せずして余命宣告を一緒に聞くことになったのは、がん治療の結果を聞きに診察室に同席したからだ。

父は、「座してのんびり死ぬくらいなら、まだまだ治療を受けて前向きにボロボロになって死にたい」と言い切った。担当医は、伝えづらそうに「あなたの身体はもう治療に耐えられない」と淡々と言った。結局、治療ではなく緩和ケアを受けることに専念する1ヶ月になる。


この間、下半身がどんどん麻痺し、せん妄が始まってもなお闘い続けていた。


余命宣告から二週間が経った日、父の部屋に顔を覗かせると寝起きの様子で「いま、シェークスピア劇を見た。見せたかったなあ」と訳のわからないことを言い出したときに、「これがせん妄か」と思った一方で、父は本当にシェイクスピア劇を見たのかもしれないと思った。父は辛いだけの日々を送っていると思っていたけど、そうじゃなかったのかもしれない。


余命宣告のおかげで、1ヶ月間、毎週和歌山から群馬に通い、母の息抜きと父の介護に伴走することになった。

最後の3日前まで自らの服薬管理は諦めず、自らの医療に関わる人たちの人間関係や指揮命令系統を書いた図を手元に置いた。日替わりで来る訪問看護師や医師の発言を必死に記憶にとどめようとし、何か記事でも書くのかという勢いで理性的に振る舞おうとし続けていた。

父の職業人生の大半を占めた記者という仕事が父の性格形成に大きな影響を与えていたことを思い知った。ラストスパートだと分かっていたからこそ、頻繁に帰ることができ、知り得たこと。

一体、自分の性格形成に影響を与えるような職業倫理って自分にはあるだろうか。アントニオタブッキの「供述によるとペレイラは」を思い出す。父は「仕事」と「仕事仲間」を本当に愛していた。


小学生の頃、タイヤ館か何かのCMでタイヤを頭にはめて踊る人を「臭くないのかな。あんな踊りよくやるな」といった趣旨でつぶやいたことがある。すると父は、「ひとが誇りをもってやってる仕事だから敬意を持ちなさい」というようなことを言われた。当時ぜんぜん実感を持てなかった言葉だが、それはずっと覚えている。

そんな父は当然、仕事を愛し、22時前に帰ってこなかった。ある日、母が寝てしまったのをいいことに、起きて父の帰宅を待っていたことがあったが「いつまで起きてる!」と怒られた記憶も脳にこびりついている。

良きにつけ悪しきにつけ、「仕事人間」を目に焼きつけた私の少年時代を思い出す父の癌末期だった。


結局、人生最期に交わすらしい真剣な会話のやり取りも1〜2あったかどうか。父との日記は再びぶっつり切れた。新しいページはもう書けないんだな、としみじみ思う。

最後の日、いつもは母が口に差し出す朝食を私が父の口に運んだ。最初で最後だった。みんなで食べるご飯は美味しいね、と呟いた。テレビでNHKに映る芸人の司会を見て「いい歳して前髪があるのは見っともない」と気道確保に苦しみ喘ぎながら声を絞り出した。

そうするうちに、去痰剤を持ってしても痰が切れなくなり、呼吸はゼーゼーと言い始め、強い麻薬で昏睡になった。


父の亡くなった後にはっきり違うことが一つある。父の陰口がなんだか明るく感じられる。前はそんなことを母や弟と話していても、陰口以上でも以下でもない。言ってる方もエネルギーが湧かないものだ。今はぜんぶ父の思い出話になる。驚くべきことに、自分たちの仕草や行動、文字の一つとっても父を見出してしまう。それがきっとこれまでの陰口や笑いとは違うことに父も気づくだろう。もしかしたら全く変わらず、怒ったり拗ねたりしてるかもしれないが。父よ、でもこれは全て事実だし、たまにいいところもこれから話そうと思う。まだ出てこないけど。

49日前だし、まだその辺を歩いているだろう。いまは足が自由になり好きな畑いじりやDIYに勤しんでいることだろう。

#闘病
#レクイエム
#父について

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