愛を確信すること グザヴィエ・ドラン「わたしはロランス」

前書き

最近は、書き続けることをやめたことで、世界の理解がのっぺりとしていく恐怖を感じていた。景色が美しくあるのに、「美しい」という概念を忘れたような気持ち。

「美しい」や「愛している」という言葉は単に看板か使いやすい鋳型でしかなくて、本来そこに込める意味は、意図は、無限の内容をもつ。ぼくは近頃、何にしても看板だけを持っている気がする。自分の情動を吟味するだけの時間も関係もしっかりと持ち合わせてない。何よりも人と相対するということが苦手で、具体的に自分に起きる事柄の解釈は創作物を通して考えた方が自由になれる。


本題
グサヴィエ・ドラン監督作品
「わたしはロランス」


いくつか印象的なことをあげたい。
ぐっと話者に迫っていくカメラワーク。撮影技術のことはよく知らない。でもこの視点の動きに見覚えがある。それは、親の喧嘩を見守る子どもの頃のことだったと思う。今でも覚えている。不登校の弟を巡って喧嘩する両親。オロオロする自分の視点移動。やがて教育上の判断でその場から引き剥がされ、二人を同時に視野に入れながら、二階へあがるぼく。

子どもの僕は、当事者でもあるのに、目の前で起きる事態に固唾を飲んで見守るしかない、傍観することしかできない。そんなことをわたしはロランスを見る者に思わせる。「見る」というより、巻き込まれるようにして見ることになった。こんな緊張感と美しい情景を目に留めたくて、時間の長さを感じなかった気がする。

その他にも、見る人自身の感情を震わすような音楽と、フレッドやロランスの感情表現を極彩色に切り取って編集し、再生したような映像は繰り返し流した。

例えば、逃避行先で色とりどりの服が舞い落ちるシーン、最初の別れを切り出したフレッドが全てを振り払ってパーティーに現れるシーン、最初の別れ際に「お会計」を呼ぶシーン、ロランスの書いたごく私的な詩集を読み、滝のような涙が降り注ぐシーン等は数度も見た。月並みな表現しか言えないんだけど、今ここにある「生」の逞しさ、激しい情動に見ているものとして巻き込まれるしかなかった。


こんな一瞬を、自分の体験としてポケットに仕舞い込めたら、と憧れる。そしてことあるごとに、ポケットにあるその一瞬を、現在進行形のように思い出すのだ。もし結果として悲しいものにその一瞬が連なっていようとも、その美しさが人生を支える杖になるだろう。


この映画は十年間の二人の人生の軌道が重なったり、離れたりしながら、そうなるしかない結末を飲み込ませてくれる。一抹の寂しさよりも、人生にどうしようもない隘路があり、向き合ったことを誇りに思えてくる。ラストシーンのフレッドが飛び出すときの表情はそう語っているように思えた。


さて、そこまでわかっていても、色とりどりの服が落ちてきたような思い出の一瞬を胸ポッケにしまい込むのは怖いことだ。美しさとは、過去と共にあることだから。一瞬が列なるその物語が、ハッキリとした結末にたどり着くまで、絶望をつれて歩き疲れるまで、自分ならポッケにしまう所作は結局のところ難しいと思う。

だからこそ、ロランスがクリスマスに開いたパーティーの夜更けに流れるシャンソンに痺れる。<画像はYouTubeにリンクしている>

「再び別れるより共に消え失せたい。共に消え失せたい。遅すぎもせず、早すぎもせず。」



哀しいけど美しい。切ないけどたくましい。この理由はなんだ。それは怒鳴り散らしあいながら心の深い部分を晒して対話し、「ほんとうの私」を徹底的に確認することで、「終わり」を受け止める重苦しさが視界いっぱいに満ちていても、二人の間に満遍なく散らされた愛の確信を辿ることができたからだ。

もう会うことがなくても、愛するということは可能なのだ。セックス以外の、いや以上いうべきか。愛の可能性を知ることができた。

それにしてもグザヴィエ・ドラン、24歳のときの監督作品。その早熟さに驚く。いろいろなことを後から理解できるように人生が僕らにとっておく奇跡を先に知る人は、どんなふうな生き方をしているんだろうか。

追伸
アントニオタブッキの「いつも手遅れ」という短編集に所収された「禁じられた遊び」には以下のように書いてあって、たどり着く結論の普遍さを感じて感傷的になった。最後に引用して終わろう。

『いつも手遅れ』p52

僕の大切な友人。別のカフェで貴女と待ち合わせをしたい。ぼくらが無駄に待ちつづけたあの間違ったカフェではないカフェで。しかし、それがどこにあるのかわからない。しかし、それがどこにあるのかわからない。おそらく、それはふつうのカフェではなく、鉤括弧付きのカフェなのではないかと思う。永遠不動のイメージ。ある種のプラトン的観念としての「カフェ」。コーヒーなど出さない「カフェ」。たしかにぼくらが人生で経験したことを誰も取り去ることはできない。

さようなら、僕の大切な友人。あるいは別の人生でまた会おう。

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