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須賀敦子「ヴェネツィアの宿」

ヴェネツィアの宿

人との出会いは、気づいた時には始まっている。これからもずっと続くように思われた間柄は、相手の死や旅立ち(離職や旅行、結婚など)で唐突に終わったりする。

もちろん僕はそんな風に終わることを予期していなくて、性根に染みついている不精のために映画のエンドロールみたいに美しく「終」や「fin.」に終えられないでいる。

じぶんの中で区切りをつけるための儀式を先延ばしにして週末を繰り返す。相手がこの世から居なくなったり、どうとも思っていないことは分かっていても、その区切りがつけられなかったことを心の澱にしてい生きていく。

須賀敦子の場合はどうだろう。戦中戦後の中で女が「女」の桎梏に縛られることなく生きていくこととは何かをじぶんに問うて、ほとんど同胞のいないイタリアで約15年に渡って過ごした。その彼女でさえも「別れ」については同じ人間なんだと感じた。

本書から得られた学びをいうならば、「別れ」というできごとを「」で括るのは、いつまでも、どこまでいっても相手のいることではなくて、自分自身のようだ。
自分にとって区切れなかった別れが、その相手がいなくなった後に神さまがきちんと区切れるようにしてくれることがある。それは週末の訪ればかり願ってる不穏な日常を重ねるいまの僕にとっては人生の恵みのような知らせだ。本書の帯の通り、齢を積み重ねれば「懐かしい人達がここにいる」と言うのかもしれない。

信仰のない僕なら神さまじゃなくて「時間が解決してくれる」と言うことの方が妥当なんだろう。だけど文学を大切にすることや、ここではないどこかにたいする想像力を膨らませて大切にすることが、予期せず祈りみたいに作用すると思うから、ここは神さまにしようと思ったのだった。

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