加納ちひろ
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「孝弘に、二十歳のお祝いだ」と義治おじさんが僕に寄越したのは繭だった。何かしらの節目となるお祝いで見かけるようになった繭だが、古い考え方が抜けない両親は繭を見た途端にため息をついていた。僕も貰った時は両親の手前、苦笑を浮かべたが内心では飛び上がるほど嬉しかった。 僕以外の周囲の人間は、みんなが繭を持っていた。友人も、部活の先輩も、恋人も、みんながみんな、繭を持っていた。繭を持っていない人間の方が珍しいくらいだったせいか、よくみんなは僕に繭のことを話してくれた。 繭はね
止まらなくなった涙を 夏が来る前に手放せば 涙が空にかえることなく 雨に隠してしまえるだろうか 子どもが跳ねた水たまり 泣きわめく声といっしょに 傘からこぼれた水滴
わたしは何一つ 理解できないだろう コピーした わたしの遺伝子で わたしと同じ人生を 歩んでも わたしの何もかも 何も知らずに 死んでいくこと
きみも年を取ったら 珈琲を飲めるようになるよ。 舌が鈍感になるんだ。 知らない大人のひとが 遠くに遠くに立っていて わたしに微笑みかけた いつか あの人の気持ちも わたしの気持ちも 分からなくなる日が来る 足りない日々を 愛しく思うよりも先に 忘れてしまう日が来る ブレンドコーヒーを 飲めるようになって 俯く時に思い出すことも なくなってしまう日が来る ブラック缶コーヒーは まだ飲めないけれど 全て飲み込んだ日に 覚えていたいことも 思い出せずに 遠い場所に立つ 珈琲を飲
飛行機雲を人差し指で 上から線を引く 太陽の眩しさに 目を細めながら 追いかけても先まで 行けなかった先に 果てすらもなく あなたがいなくても わたしが幸せな世界は どこかにあって わたしがいなくても あなたが幸せな世界が どこかにある 行き場のなくなった手を お互いに重ねて帰ろう 居場所なんて 簡単でひどく脆い 明日には ただ青い空だけが 残っている
どこにも行かないで わたしの小さな世界で 雨になって降り注いで 雲になって日陰を作って 光になって朝を教えて 星になってくれたなら 星座を指先で撫でてあげる 海になってあなたの波で 体を包み込ませてあげる 外の世界じゃ 何者にもなれなくて 泣きじゃくっていても ここにいれば大丈夫だからね
しがみついて 生きていくことを せせら笑うなら どうぞそのままで 手紙を燃やした火は またよみがえる わたしは知ってる
空席を「奪った」と仮定するなら、 座るだけでずるい人間になる。 わたしの席。 かつて誰かが座っていた席。 あの人が座るはずだったのよ と教えられたら、 わたしはわたしの席にいられるだろうか。 (いいえ、今はわたしの席ですよ) はっきり言えたら幸福だ。 (いいえ、今はわたしの席ですよ) (いいえ、今はわたしの席ですよ) (いいえ、今はわたしの席ですよ) あなたの席は、きっと、あそこなんじゃないかしら。
月の光には浄化の力があるらしい。 満月の日は力が強すぎて じっと見てはいられない。 全てを癒すにはひどい痛みだった。 わたしは とうてい月の下では生きられない。 うつくしいひとだけが 縁に手をすべり寄せて微笑んでいる あんなにも優しく。
あなたは知らないだろうけど 小説を読んでいて わたしの好きな文章を 読んだ時にね 「あなたが好きそうだな」 なんて思ってしまうの 普段は忘れきっている何かが 頭の中で結ばれた時に あなたの存在が あらわれてしまう あの日 あなたのことは忘れようと思った あなたは知らないだろうけど 私の悲しみなんて あなたの好きな物語を 手放せないことに比べたら なんて浅はかなの
植えた種の芽が出ない きっと枯れてしまったのだ 水をやり太陽に当て声をかけた しかし 植えた種の芽が出ない 水が悪かったのだろう 太陽が怖いのだろう 歌にうんざりしていたのだろう あの本にもこの本にも やり方が書いてあった 真似をした 真似をしただけだ 植えた種の芽が出ない 植えた種の芽が出ない いったい何が 欲しかったのか いったいどんな 姿をしていたの ふたりで植えた種
「便利ね」って 聞くたびに 何かが失われる 勝手に 虚しさを覚える 何かがそこにいて 何かがいたのでしょう 電波で話をする 接続不良の中に 置き去りにした 過去形たち
襖の中に友達と隠れて 小さく笑い合っていた わたしたちがどこかに 作っていた秘密基地で 橋の下は三人だけの 待ち合わせ場所 みんなには内緒だよ だれにも言わないよ 乾いた浴槽に入り込み 蓋を閉じて横たわる ただ目を閉じていたんだ 入り込める場所で 魔法の世界は 閉じた先の向こう側
行き場を探して 疲れきった子ども 壊れた電球の下で 読まれていた本 砂糖とミルクばかりが 注がれた珈琲 名前のない悲しみを 誰にも教えられず そっと知っていく
グラスの中で氷が鳴った。 スマートフォンから顔を上げると、ちょうど彼女と目が合った。不機嫌そうな顔で見つめてくる眼差しに、何か冷たさを感じて僕は顔を上げたまま画面をスリープにする。 にこ、と笑顔で返事をすると、彼女の顔はますます険しくなった。 「……なに?」 僕は笑顔を崩さずに問いかける。まるで自分は悪くありませんよと言わんばかりの顔で。実際に何をしたかなんて、この時点では分からない。女の子はこういうずるさがある。 あなたが悪いことをしたのだから、私を不機嫌にした理由
白湯に流し込んだ 昨日のわたし 生まれ変わるのか 消えてしまったのか 考えることもなく 時間がやって来る