自由への迷走

 小学生の頃、 担任が 「この時間は勉強しないで自由にしていいぞ」 と言ったのでボールを持って外に行こうとしたら、 叱られた。

 中学生の頃、 遠足で何処かの科学館だかに連行された時、 「あとは自由行動だぞ」 と言われたので科学館から出て家に帰ろうとしたら、 叱られた。

 自由とは一体なんなのだ。

 「自由にしろ」 と言うから自分で考えて行動しようとしたのだが、 叱られるのだから、 それは彼らが言ったのは本当の意味での 「自由」 ではないだろう。

 社会には一定レベルのルールがある。

 恐らく、 彼らの言った 「自由」 は規定に則った範囲内での 「自由」 であり、その規定から逸れた行動は却下すべきものなのだったかもしれない。

 幼い頃から捻くれていた自分は叱りつけた先生方に対し、 「それは自由ではないじゃないか。 自由にしろと言ったのだから、 “自由” にしたっていいじゃないか。 では、 “自由” とは一体なんなのだ」 と反論をした。 反論をしたが誰も彼も明確な答えなどくれることなく、オトナはダンマリを決め込んだ。

 先日、 テレビのニュース番組を見ていて 「 ”言論の自由” は認めるが、宗教においてはそれを認めることが出来ない」 と主張する某世界三大宗教の一つの信者が話をしていた。

 「言論の自由」 とは社会の規定に則ることなく好き勝手にやっても良い! という免罪符なのだろうか。

 某国の王室のトップレスやらなんちゃらについても、 「言論の自由」 が当てはまるのだろうか。

 それが、ヌーディストビーチやらプライベートビーチなら誰しもやっていることを 「王室の人間だから」 という理由だけで写真を撮られ、 果ては雑誌の表紙を飾り、 これがネタで雑誌が売れる! と判断する人間が雑誌を作っているのであれば 「言論の自由」 というヤツがもたらす  “自由”  の免罪符の効用は凄すぎる。

 王室の人間が 「たまたま」 ヌーディストビーチで脱いだ写真が雑誌の表紙を飾るのならば、 「たまたま」 ヌーディストビーチで脱いだ大阪のおばちゃんの写真を週刊誌の袋とじで特集したって別に問題ないじゃないか、 と思ってしまう自分に問題があるのだろうか。

「何をやっても良い」 という免罪符が 「自由」 であるのなら、自分は幼い頃叱られ損をしていたことになるのだろう。

 そして、某宗教のデモについても、 「コレが認められた ”自由” なのだから、 無駄なことはせず諦めなさい」 と某王室が言ったら、 それはそれで楽しいことになるだろうと不謹慎なことを考えながらビールを飲む。

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