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初めてカメラを持った頃3

クラスメイトに誘われて撮り鉄の第一歩を踏み出したのは、山陽新幹線博多開業の一週間前、1975年3月2日の日曜日でした。大阪駅で記念すべき初シャッターを切ったのは急行「つくし」。この時は既にヘッドマークは無く、何とも寂しい姿でした。ホームには「しおじ」や「日向」の乗車位置が写っていますが、初めて訪れた自分には列車以外は目に入りませんでした。その後は来るもの拒まずで、「だいせん」「雷鳥」「白鳥」「しなの」「日南」「あかつき」「しおじ」とひっきりなしにやってくる列車にカメラを向けていました。

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ところが、当然のごとく途中でフィルムが終わり、トップ写真のように巻き上げレバーが動かなくなりました。ピントを合わせてシャッターを切る事以外、当時の自分には全く知識が無く、同行のクラスメートに聞いても解決しません。とりあえずホームの Kiosk でフィルムは買いましたが、入れ替え方が分からず困っていると、近くに居た駅員(乗務員?)さんが見るに見かねて入れ替えてくれました。もし、この出来事が無く、帰路に着いていたなら、この後の奇跡のような並び写真は撮影出来ておらず、今更ながら、見知らぬ駅員さんに感謝の気持ちで一杯です。

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この並び写真は、その後の自分の撮り鉄人生を決定づけた一枚です。後で知ったのは、右の31号機は大窓タイプのラストナンバーだったそうで、お召予備機の60号機との並びは超レアなのだそうです。そうと知っていれば、あと3カットぐらい撮っておけば良かったのですが、初めての自分には知る由もありませんでした。そして、約40年後に雑誌に掲載されることも…。

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撮り鉄を始めた当時、それ以外に草野球、英会話、ボーイスカウト活動等、色々とやっていたこともあり、その後、撮影に出掛ける時間はなかなか取ることが出来ませんでした。上の「しらさぎ」号の写真は、ボーイスカウトの夏の恒例行事、野営の往路、急行「立山」で高岡に向かう途中、加賀温泉駅で撮影したものです。「立山」はここで「雷鳥」と「しらさぎ」に道を譲る為、撮影出来た一コマです。Konica C35は、バリ順だとこれだけ綺麗に写るという見本のような写真です。そして、自分の中では、車両顔写真撮影時はこの頃から面縦と決めていたようです。

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こちらは家族旅行で伊勢を訪れたときに鳥羽駅で撮影した「あおぞら」号。下は、母の故郷である「浜寺公園前」で撮影した阪堺220型。

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その後も、出掛ける時は必ずカメラを持参するようにし、撮れる範囲で色々と撮影した中学3年間でした。

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