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オートバイのある風景17 バイク便と8時25分のマドンナ

 バイク便を起業してから3年ほど経っていただろうか、気がつくと僕は20名ほどのライダーを抱え、シフトで日に10名ほどのライダー、ドライバー(軽四貨物も走らせていたので)を事務所から送り出すほどになっていた。

 朝一番、早番のライダーとドライバーは定期便や予約の仕事がメインのために7時半から8時くらいまでには皆事務所を出発する。
日中の緊急対応に待機するライダーは9時くらいからポツポツ出社するので、それまでのほんのわずかな時間が僕のリラックスタイムだ。
僕は決まってコーヒーを淹れ、表の通りをボーッとながめながらひと息つくのだった。

 夏も盛りを過ぎたある日、いつも通り早番のライダー達を送り出して一息ついている時の事。
事務所の前を歩くひとりの女性と目が合った。
近所のOLさんだろうか、これから出勤という風に歩きながら横目でチラッとこちらを見た横顔はタレントの高田万由子に似ていた。

綺麗な人だなぁ

 素直にそう思ったが、それ以上の印象は無かった。
その彼女はしかし翌日も、そのまた翌日も同じように事務所の前を通り、こちらをチラッと見るのだった。

 僕は僕で、もう3日目くらいからは彼女が通るのを待ち焦がれるようになった。
事務所の前を見張っているわけにもいかないので、ごくごく普通に振る舞う。さりげなく、コーヒーカップを手にチラッと壁の時計を見る時にふと目が合うくらいが理想だ。
 僕は時計を見ながら、彼女が通る頃を見計らってコーヒーを淹れる。
すると彼女は決まって8時25分頃通るというのが分かって来た。
僕は彼女の事を密かに
「8時25分の君」
と呼ぶようになっていた。
 もちろん、僕には妻子があるし、仕事も家庭も順調だ。何を期待するわけでもないのだが、ほのかに胸がときめいていたのは紛れもない事実である。
彼女は彼女で、毎朝僕と目が合うのにそれを避ける風でもなく、決まった時間に決まったようにこちらをチラッと見るのだった。

 そんな事が何日も続くとこれはもう誰かに話したくなってくる。
僕は行きつけの居酒屋のカウンターで大将にちょっと盛って報告をする。
彼女はどうやら僕に興味があるようなのだが、僕は所帯持ちですと告白すべきだろうか?と。
大将(スポーツスター乗りだ)は、そんな僕の話を一笑に付す。
「幸せだなぁ、茶袋君は」
店のおかみさんも嬉しそうにニコニコ笑っている。
僕も何となく嬉しくて杯が進み、伝馬町の夜は更けて行くのだった。

 そんな事が続いていたある日の夕方、僕は事務所の駐車場でデリボーイの内装を直していた。よくある天井内張りの垂れである。
スプレー糊を拭いて天井に内張りを貼って行くのだが、1人では大変な作業なので小学校3年生の息子に手伝わせていた。
 夕方といっても7時近かっただろうか。そろそろ薄暗くなり始めたその時、そこに何故か8時25分の君が現れたのである。

当然のように僕と彼女の視線が合う。
僕と息子を見比べて少し驚いた彼女の瞳。

 きっとウォーキング中だったのだろう、ピタッとしたジャージ姿の彼女は気持ち早足でその場を去っていった。
朝とは逆の方向だった。
「違う、違うんだ、いや違わない。この子は僕の大事な息子です、他に娘もふたり、それによく出来たカミさんもいるんです…」
言葉を交わした事さえない彼女に対し、頭の中でおかしな言い訳をしている自分がいた。それまで気がつかなったが、近所の神社から聞こえるひぐらしの鳴き声が辺りを包んでいた。

 そして翌日から8時25分の君が事務所の前を通ることは二度と無かった。

 僕の大好きなスピッツのロビンソン
「待ちぶせた夢のほとり 驚いた君の瞳」
このフレーズを耳にすると、僕はこの夏のほんのちょっぴり甘酸っぱい記憶を思い出すのである。






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