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日本の美意識 11

こんにち「日本の文化」とされているものの多くが、もとは外国からの渡来品であり、それをリノベーションしたものである。
唐絵からやまと絵、漢字から平仮名、点茶から茶の湯、五節句にみられる催事など、日本の文化は、実に多くの渡来したものを自分たちに合うように変えて受け入れてきた。そして、そのリノベーションの際に材料として注入された感性こそが、日本文化の根本であり、「日本の美意識」であると考える。そして、それには「自然」が大きく関わっており、欠くことのできないものであるだろう。

 我々の自然をみる眼は、古代には生死を左右するような、環境を観察する目であり、そこに崇拝が生まれた。
やがて、自然は客観的に愛でられ、歌に詠まれたり装飾として身の回りにあるようになった。次第に自然は主観的にとらえられ、己の心情を投影させて表現された。
平安期、心情の表現のひとつに、しみじみ感じる「あはれ」があらわされるようになった。
世の中のあらゆるものを陰と陽で分けるなら、平安王朝のみやびな世界は、明、愉、華などの、気分が高揚する陽属性が中心であったと考える。平安王朝で好まれた美意識は、満月や満開の花のような、その美しさや良さの理解が容易な陽属性ものであっただろう。しかし、一方では、「はかなし」のような、陰要素の美意識もあった。それらは、華やかさとは裏腹で、表立って表される事は少ないが、源氏物語の中では生きる苦しみや心情の辛さとといったかたちであらわされる。そして、それらも「あはれ」とされることから、平安期の「あはれ」は、、特定の心情ではなく、「心に感じること」であったと考える


中世の武士の世となると、死が身近にあり、その価値観は無常観のような陰属性のものへと変化した。季節なら秋や冬が陰にあたり、寂、静、清などの、消極的なものや感情も陰に属する。そこでは、散る花や欠けゆく月など、不完全なものや滅びにむかうものへ心をよせる傾向がみられ、自然へ投影させた心情は、儚さや虚しさ、寂しさのような消極的なものであった。

藤原俊成は、目には見えないしみじみと感じる心を「幽玄」とした。また、鴨長明は幽玄は「余情」としてあらわされると述べた。仏道に身を置く心敬は無常観も心の内に具えており、幽玄とされる心のあり様の一端に清らかな澄んだ「冷え」があると述べた。
無常観にみられるような、陰属性のものに価値をみいだすようになったものが「わび」であり、そこに感じる冷えた情緒が「さび」である。さびは、陰属性のものに陰属性の情緒を抱くという、難解な美意識で、そのため、いきつくところまでいってしまった「究極の美意識」などといわれることもある。

このように考えられる日本の美意識だが、陰と陽の属性だけに分けられるものではなく、両面をそなえたもの、あるいは、見方によっていずれかに変わるものもある。そして、玄人好みの「さび」が、美意識の頂点のようにされがちであるが、そこに優越はないだろう。
また、陽属性の美意識は完全や永遠を美とする西洋的な意識に近く、陰属性を好む美意識は、とても日本的なものといえるのではないだろうか。

ところで、日本の歴史の中に登場する、わび・さびとは反対のものをいくつか考えてみたい。
たとえば中世の「ばさら(波婆羅)」とよばれた、派手な格好やふるまいをした人々や、大袈裟で過剰なふるまいをみせる「歌舞伎」、あるいは、絢爛豪華な「桃山文化」や尾形光琳らがいた「元禄文化」、昭和末から平成の「バブル文化」などがあるだろう。
それらは、陽属性であり、派手で華やかであることは勿論だが、その価値や美しさが視覚的にも分かりやすいという特性がある。そしてそれらは、無常観やさびといった、陰属性の風潮に反発するかのようにあらわれるのではないか。
陽属性と比べると、陰属性は理解が難しく、死や老いなど嫌悪されがちなものもある。そのため、その良さを見出すには「見る眼」を養うことや、心の修行とでもいうべき鍛錬を要するのだが、そのような、面倒な手順に難を感じたり面倒くささを覚えたりしてしまうと、理解が容易な陽属性のものを好む傾向になるのではないだろうか。
そして、2024年の現在は、陽属性のものが好まれる風潮にあるだろう。SNSでは、過剰なほどに見映えよく誇張された「盛り」「映え」写真があふれている。これは、現代のネット社会においては、その情報量が多すぎて自己の処理がおいつかず、じっくりと考える余裕がない、あるいは、コロナ禍や長く続く不景気のために、物事を深く思案する心の余裕がなく、視覚的にもわかりやすい陽属性のものを求める傾向にあるのかもしれない。または、注目されたい、認めてほしいという承認欲求が強いため、視覚的に広くアピールできるものが好まれ、映えの傾向が強まるのだろう。

上述した「物事を深く思案する心の余裕」とは、余韻や余剰に見出すことが出来ると考える。
絵画にしろ詩にしろ、ぎっしりと説明がされてしまっているものは、受け手がそこから想像する余地が少なくなってしまう
説明がされてしまっているというのは、描くものなら余白が無いとか、詩歌なら文言が多いということではなく、受け手の想像の余地が少ないということで、表現の仕方によって変わってゆく。
例えば、「梅の花」とあらわすより「春告草」とか「匂草」とすると、様々な想像が広がるだろう。
美術工芸品の余白について、2023年出光美術館で開催された「江戸時代の美術─「軽み」の誕生」展の中で
「江戸時代の美術前史、室町時代の絵画を含む文芸においては、春夏秋冬の景物に植物や鳥類など、画面をたくさんの形と意味で満たした「ものづくし」と呼ばれる修辞法がもてはやされた。
対して探幽は、後水尾ごみずのお天皇(1596~1680年)に向けて、すべての要素を絵に描くのはよくない、画面にゆとりや隙を感じさせるようにするべきとして「絵はつまりたるがわろき」と語ったいう。」
という解説がある
これは、先述した、説明が多いものではなく、鑑賞者が思案できる余地のあるものが良い。としたものでなかろうか
説明過多のものは、それを受け入れるだけで満足してしまうが、考える余地(余白)があるものは、そこに、何かを感じ、対象を主観的にとらえ、より、味わい深く楽しめるだろう。

このように、作品の余情に、何かを求める傾向は、とても日本的であろう。ただし、そのような美意識は、日本人独特の「察する」という文化に繋がってると考えるが、「察する」ことを他人に求めるすぎるのは如何なものかと思う。
また、余情や余白から、何かを感じることばかりを求めたり、そこに至った者が優位である事は決して無い。まして、感じる内容に優越をつけるのは、甚だ可笑しなことであろう。
表現されるものには、説明尽くしのものと、自ら思案することを要するものがあるということを頭のどこかに留めておくと、味方が変わるかもしれない。というだけのことである。


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