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ザ バッド アンド ザ ビューティフル/サム テイラー


ザ バッド アンド ザ ビューティフル/サム テイラー
ムーズヴィル 24
1962.2.20

このアナログ人間の僕でも家のパソコンでNETFLIXなんぞを観れる様になり、毎日退屈知らずの日々を送っている。NETFLIXにはたくさんの音楽ドキュメンタリーが配信されているからなおさらだ。なにせ今までにサム クック、マイルス デイヴィス、クインシー ジョーンズ、ニーナ シモンなどを観て改めてブラックミュージックの奥深さに圧倒されているのだから。
そういえば僕がネトフリを観れる様になる以前から、音楽のドキュメンタリー映画はボツボツと劇場で公開はされていて、ここ5年の間には傑作「サマー オブ ソウル」やリー モーガン、アレサ フランクリン、セロニアス モンクなどを観ていちいち感銘を受けたものだ。ここ5年は音楽ドキュメンタリーが花盛りなのだろうか。こういうドキュメンタリーは海外では元々年間に何本も制作されていて、そんなニュースが舞い込んできては観るのを楽しみにしていたのだが、これまではそのほとんどが日本では未公開に終わってしまっていた。間違いなく売り上げが見込めないからであろう。だから僕みたいなマニアックな人間にとっては大変悔しい思いが続いていたのだが、こうして配信の時代になったら、かなり改良されて観れる機会が増えたのは嬉しい限りだ。頭の古い初老なのでネットというものにはあまり良い印象は持ってはいないが、これはネットの時代になってつくづく良かったと言える例だと思う。

さて、そんな音楽ドキュメンタリー映画の中、僕が本当に好きな一本をあげるとなると、それは迷いなく日本では2013年に劇場公開された「シュガーマン」である。
場所はアフリカ大陸最南端の国、南アフリカ。オランダの支配によるアパルトヘイトをネルソン マンデラ氏らの命をかけた尽力によって解消した共和国であるが、この国で昔から全国民に共通して歌い継がれていたという国民的人気曲シュガーマンを巡る調査を追う。ところがこのシュガーマン、全国民の愛唱歌であるというのに、どこの国の誰の曲で、どうして南アフリカだけで愛されていたのかは誰も知らなかった。まさに謎の歌だったのだ。
映画はその謎を解明していく。どうやら南ア側の音楽関係者やらが権利に対して不正に不正を重ねた結果、そういう状況になったらしい。
そして、スタッフはどうやらこのシュガーマンを作って歌ったのがアメリカ人のゴンザレスという人で、今はデトロイトにお住まいだというのを突き止める。

そこから舞台はデトロイト。ひとつひとつ証言を追い、そのゴンザレスさんの住まいを探し出し、ついに望遠レンズがとらえたその人物は、本当にくたびれた、ただのオッサンであった。
この開いた窓から見えるゴンザレスの姿を捉えた様が、大変のんびりしていて緊張感もなく、それがこの映画の前半のハイライトになっている演出は本当に観ていて面白いものであった。
ゴンザレスさんは現在では音楽は辞めていて、おまけに二人の娘の世話になっているという情けない状況であったが、南アで自分が昔に作って出した歌が、国民的な歌になっているのを知らなかった。
そして親父と娘二人が南アに招かれ、コンサートでシュガーマンを歌うクライマックスに突入する。ここでは本人も知らなかったという状況と本人がもうくたびれたオッサンであるという状況が感動をより増長する。
僕は今では涙が止まらない世代の若者が当たり前の様に使う「奇跡」という言葉を口に出すのも記すのも嫌いだ。いつから奇跡がそんな安っぽいものになってしまったのだと嘆きたい。涙の数なんかより奇跡はあり得ないぞと若者に説教したいほどだ。
でもこの話だけは本人が本当に貧相なオッサンであるだけに素直に奇跡と認めざるを得ないだろう。大好きなシュガーマン、そしてゴンザレス。

なんでこんな話から入るのかというと、、、、
かなり違うのだけれど、僕はこのシュガーマンを作って歌ったゴンザレスさんに、あのムードテナーサックスの帝王であり本当のジャズテナーサックスアーティストであるサム テイラーが重なって見えてしまって仕方がないからだ。
本当のジャズテナーアーティスト、サムテイラーは長い間、そして今でも日本ではムードテナー奏者として知られ、それ故に日本のジャズ喫茶族からは邪道とされ軽視されているが、その件に関しては後ほどネチネチと文句を述べるとして、、、、。
他国で有名なスターになっていたというのが自国ではあまり知られていなさそう、という点では、ゴンザレスと共通点があるのではないか?

もっともサム テイラーはNHK紅白歌合戦に呼ばれて吹いたし、印税もちゃんといただいていたと思うので、本人は日本で人気なのは知ってはいた。しかもアメリカでも物凄い尊敬されているサックス吹きだ。しかし、当時にサムが暮らしていたであろうアメリカのどこかの黒人ゲットーで、誰が横丁のサムがはるか遠い、しかも20数年前まで戦争で戦っていた日本なる未知の地でスターになっているなんて知っていただろうか。最近サムがよく留守にしてて帰って来たらやたら羽振りがいいが、どこに行っているのだろうと怪しまれていたかも知れない。とはいえ、1ドルが360円だった時代だけれどもね。
だから僕はジャズファンとしてこの史上最高のジャズテナーアーティストであるサム テイラーがたどった奇妙な人生をもっと知りたい。音楽ドキュメントを次に制作するなら、それはサム テイラーを!と真剣にお願いしたいと思っている。

しかしそれに賛同してもらうには、このサムが安易なムードテナーに流れた2流のサックス吹きであるという日本のジャズ喫茶でジャズを覚えたジャズ原理主義者独特の偏見を取り除く努力をしないといけない。いやサム個人だけではなく、大衆音楽とそれを代表するムード音楽に対する偏見、それにジャズミュージシャンがジャズ以外の大衆のための音楽を演奏することを「流れた」や「走った」という非常識で軽弾みな言い方が常識になっている状況にも物言わないといけない。

1916年、テネシー州レキシントンという街で生まれたSAM TAYLORはクラリネット奏者として地元でジャズを演奏していたが、やがてアラバマ州立大学へ進学し、その頃にアルトサックスを吹き始める。そして南部のジャズシーンでは、その恐るべき実力のため、早くも自分の楽団を持ち、やがて1930年代末にオハイオのスキャットマン クロザーズという人のバンドに加入するため東部へ進出、楽器もテナーに持ち替えた。ニューヨークでもその実力は大変評価され、40年代になるとたて続けにクーティー ウィリアムズ、ラッキー ミリンダー、キャブ キャロウェイのビッグバンドに招かれる。この履歴だけでも、物凄いジャズアーティストである。
そんな輝かしいキャリアは当然アメリカ黒人大衆に支持されて、西海岸に本社を持つMGMに買われ、1955年「BLUE MIST」でレコードデビューする。
ご存知の様にMGMはライオンが吠えるオープニングで知られる大手映画会社メトロ ゴールドウィン メイヤー社の関連レコード会社だ。したがってこの会社から出るレコードは、ジャズも少しはあるけどクラークゲイブル、フレッド アステア、ジーン ケリー、ジュディ ガーランド、ハリー ジェームズと、この本とはほぼ系統が違う豪華絢爛なハリウッドスターのものやアメリカ人好みのポップスが中心だ。
そんなレーベル、いや会社ではやはり黒人だけではない、アメリカの一般大衆のための音楽が望まれ、その結果サムのブルースを帯びているがポップス的な要素が強い演奏が重宝される。ムード音楽のスター、サム 「ザ マン」テイラーの誕生である。

とはいえ、この頃にMGMから出された5枚くらいのアルバムのリストを眺めていれば、ディック ハイマンとの「Rockin’Sax and Rollin’Organ」などがあるし、1枚だけメトロジャズから「Jazz For Commuters」も出ている。当時のアメリカ人にはサムがジャズを演ろうがポップスを演ろうが、関係なく歓迎されたのだろう。何を演っても完璧なサックスプレイヤーなのだから当然だと思う。
それでもムードテナーの印象が強いのはやはりハーレムノクターンの大ヒットがあるからだろう。
1940年アール ヘイゲンという人が作ったハーレムノクターンはアメリカ国内でニグロルネッサンスを生んだハーレムを歌った名曲であるが、最初はアルトサックスで演奏されるために作られた。その後一時はトランペットのための曲になったが、このサムが決定的にテナーサックスのための曲という印象を植えつけた。実際にハーレムの夜想曲というタイトルがつけられている様に恐らくこの曲はハーレムの人達からすれば特別で、ちょっと出の演奏者なんぞには演奏することも許されないものだったのではないかと思う。事実、当時ではあのイリノイ ジャケもヴァーヴ レーベルに吹き込んでいるし、70年代にはジョージ コールマンがアルトでテレサレーベルに吹き込んでいる。
そしてこの頃のジャズはハーレムが産んだ音楽だという意識もあっただろう。それをサムがここまで黒人フィーリングいっぱいに吹いて大ヒットさせたのに、サムが超一流のジャズアーティストではないという理由がどこにあるのか。この頃には他にダニーボーイ、夕日に赤い帆(もの凄いホンカー!そして極上のジャズ)なども吹き込み、ちょうどステレオ装置が一般に普及し出したアメリカの中流家庭にサムの名が知れ渡った。

「ザ バッド アンド ビューティフル」はそんなサムが久しぶりにニューヨークのジャズマンらとジャズを演奏した1枚で、レーベルはプレスティッジの関連レーベルであるムーズビルだ。ここでは名曲LAURAの他、ANNA、RUBY、SUZIE WON、GLORIA、ANASTASIAという風に女性の名前ばかりのタイトル曲が演奏されている。ムード音楽としてのイメージがついたサムがムーズビルというレーベルにそんな企画のものを吹き込んだのだから、当然本作もムード音楽的なものだろうと決めつけられても仕方がないのだけれど、ところがどっこい、本作の醸し出すジャズ的な要素はちょっとやそっとのものでは無い。
まずムーズビルというのは前記した通りプレスティッジの別レーベルで、サム以外で名前が連なるのは、レッド ガーランドにエディ ロックジョウ デイヴィス、トミー フラナガン、レム ウィンチェスター、コールマン ホーキンスといった錚々たるジャズアーティスト達だ。このレーベルはそんなジャズジャイアンツ達が大衆の好みに合わせムーディーにジャズを演ってのけた名演ばかり収録されているのだ。したがってサム テイラーも彼らと同じジャズジャイアントとして迎えられたのだろう。
さらにプレスティッジといえば、のルディ ヴァン ゲルダーが他のプレスティッジやブルーノートと同じイングルウッドのスタジオで録音を担当している。あのジャズとはどういうものかを知らしめてくれるヴァン ゲルダー サウンドで聴くサム テイラー!ジャズ好きにとってここまでの贅沢は他にあるだろうか?じっさい本作で聴けるサムの音は、どんなにビッグトーンであっても常に輪郭がはっきりしており、ジャズテナーとはどういうものかを我々に知らしめてくれている。ジャズミュージシャンを上手い下手で評価するのは阿呆のすることであるという信念を持っている素人の僕が聴いてもサムのジャズの上手さは一聴同然だ。僕はジャズテナーのサウンドではアイク ケベックがその最高峰だと思っていたのだが、ヴァン ゲルダー録音のサム テイラーを聴いてアイクより先にサムがいたのを確信した。サムの吹くジャズにはコールマン ホーキンス、ベン ウェブスター、レオン チューベリー、ドン バイアス、デクスター ゴードン、ジーン アモンズ、ジョン コルトレーン、ジミー フォレスト、ジョニー グリフィン、キング カーティス、ハル シンガー、ヒューストン パーソン、ウィルトン フェルダーという歴史上の凄腕テナーマンの持つ全ての要素が詰まっている。本作では特に躍動的なラテン調で演奏されたANNAがギターのウォーリー リチャードソンのご機嫌なリズムに乗り唄いに唄っていてジャズ好きには特におすすめする。なにせこの作品には、ジャズアーティストであるサム テイラーの全てが網羅されているので、(ジャズ喫茶を通っていない)本当のジャズファンとこれから世界に出て行こうと野心を持っている若いミュージシャンは絶対に聴いて、自分の耳で良い悪いを判断してほしい。

サム テイラーはこの録音の後、再びMGMやデッカ、エピックなどのレーベル(会社)でリリースしながら、ハーレムノクターンのイメージが買われ、いよいよ日本のレコード会社からその頃に日本の家庭でもステレオが普及し出したのに合わせて演歌や歌謡曲、はては軍歌までをも吹き込んで、いわゆる応接間のスター(昔は高価なステレオは応接間におかれるのが普通であった)になるが、その反面安物のテナー吹きというイメージが定着してしまう。本当は恐らくそんな本物のジャズテナー奏者にしか出せないゴージャスさが時代に合致した結果なのだろうが、本物のジャズテナー奏者が小柳ルミ子や森新一の録音に客演し、ムード歌謡大全集といったレコードを量産したものだからジャズ原理主義者には批判と薄笑いの対象となった。。
中学生時代、神戸市中央区のガラ悪い高架下、通称モトコーを通って通学していた僕にとって、そんな街で過ごした日々に見ていた山積みとなっている憧れのレコードが、犬も食わぬゲテ物扱いのものだったのだ。

当たり前だがサムは本物のジャズアーティストである故に出されたもの全てを吹き切った。それを走ったとか流れたと判断したのは間違いであり日本のジャズ喫茶でジャズを覚えたジャズ原理主義者独特のブラックッミュージックへの冒涜である。なのになぜかそれが正義となってしまった。それはサムのレコードを聴けば誰でも間違いであると理解できることなのに、あの人達には聴く以前の問題で、聴く価値なしと寄ってたかって決めつけてしまう。そもそも日本のレコード会社がなぜ当時あれほど現役だった優れたジャズテナー奏者の中からサムを選んでレコードの吹き込みを依頼したのか?それはサムに他の者には無い何かを感じたからに違いないし、それはサムのレコードを先入観なしに聴けばわかる。しかも大衆に親しまれる要素があるから売れて、結果として量産されたというのは理解しないといけないはずなのだが、ここでまた「ポップスやソウルのヒット曲や8ビート、16ビートなどは演らされている」「売れるものは邪道」というジャズ喫茶の阿呆な教えが原理主義者にまず聴いてみるという人として当然のことさえ出来なくさせている。

「ザ バッド アンド ザ ビューティフル」を聴けば、当時のサムが他のテナー奏者の演れることは簡単に演ってのけれたであろう実力を持っていたのはよくわかる。それにプラスαとして誰にも真似出来ないゴージャスでムーディーな表現が可能だったということだ。
こんなものはナイトクラブで演奏される程度の低いものだと主張される原理主義者はおられるだろう。しかし、ジャズ喫茶で正しいとされるジャズしか視野を持っていない奏者と比べて自力であの演奏を演ってのけて大衆の心に入って行った奏者の方が程度が低いなんてどこに根拠があるのか?そんなサムが当時にジャズ的な流れに追従してる者だけが正しく、あとは邪道と決めつけていたジャズ評論家やジャズ喫茶の親父、そして親父の信奉者らにはゲを吐くプレイヤー扱いになり下がってしまったという事には、高架下を通学路としていた元少年として、こちらがゲで返したい思いである。

1990年を迎えた頃、日本の音楽界は天変地異ともいえる改革を迎える。ロンドンで端を発した、ジャズをもう一度カッコいいダンスミュージックとして捉え、クラブで踊ろうというムーブメントがやってきたのだ。それらはクラブジャズやらアシッドジャズやらレアグルーヴやらと色々な呼ばれ方をされたが、とにかくブームとして若いシャレオツな、古いジャズ喫茶族は絶対に招き入れたくないチャラチャラした奴らがジャズを扱い出したのだ。当然ジャズ警察と呼ばれる老人達はジャズ喫茶という閉鎖的な空間で彼らの台頭を嘆き、非難した。もう長い間、ジャズ喫茶には新しいものが入ってきてなかったから気持ちは察する(笑えたけど)。そもそも初期にこのブームに乗った若者は基本的にそんな保守的で頭が硬いジャズ関係者の正義感の真逆を走り混迷させるという批判精神があり、僕はそこが痛快で面白くこの時代を過ごしたのだが、それは60’sと彼らが称したチープなサウンドへの再評価に表れた。そして彼らが催すイベントには、そのフライヤーにSoulやJazz、Funk、Techno、R&Bに混じってMoodという項目が記され出し、DJらがターンテーブルに乗せた。チープなサウンドをお洒落と判断した彼らは、高架下に積まれていたもの全てではないにしろムード音楽を見直し出したのだ。ムード音楽でもジャズ的なフィーリングを持ったサムのレコードも少し聴き直される時代の到来である。このブームはその後ありとあらゆる原理主義者が認めない音楽を飲み込み、今の日本の音楽を世界に羽ばたかせる大きな流れと変貌して行ったばかりか、以前とは比べ物にならないくらいジャズが普通の若者にもカッコいいとされる当たり前の姿に戻してくれた。
まあしかしジャズ原理主義者が認めない音楽だと、結局この世に生まれた音楽の99.99999999999999999999999%なのだから、面白くなるのは仕方があるめえ。可哀想だけど(笑)。

時が過ぎ、21世紀も10年を越えた頃、神戸元町の狭いむさ苦しいレコードBar Doodlin’には神戸の街で名を上げてやろうという野心を持った若いサックス吹きが度々現れてはビールかコーヒー1杯でジャズレコードを夢中で聴いていた。全員、モトコーにムード音楽のレコードが山積みになっていたことはおろか、ムード音楽が流行った時代の空気も知らない。そんな彼らに店主はサム テイラーの「ザ バッド アンド ザ ビューティフル」を聴かすのはいつものことであった。その結果、サム テイラーがどんなことを演ってきたか知らない彼らは大興奮して、こんな凄いカッチョいいテナー吹きがいたなんて知らなかったと狂喜して家路についたものだ。固定概念が無いうえに(原理主義者の言う)上手いだの正しいだのを目指しておらずカッコいいを信念とする若い奏者にとってサムはそんなアーティストなのだ。

時代は変わっている。原理主義者の皆様はどうかそれを理解してほしい。文字で読んだ知識でジャズミュージシャンを判断しないで聴いて判断して今までの評論を気にせず自分の見解を話してほしい。日本のために、世界に旅発つ若者のために。どうかどうか。

小倉慎吾(chachai)
1966年神戸市生まれ。1986年甲南堂印刷株式会社入社。1993年から1998年にかけて関西限定のジャズフリーペーパー「月刊Preacher」編集長をへて2011年退社。2012年神戸元町でハードバップとソウルジャズに特化した Bar Doodlin'を開業。2022年コロナ禍に負けて閉店。関西で最もDeepで厳しいと言われた波止場ジャズフェスティバルを10年間に渡り主催。他にジャズミュージシャンのライブフライヤー専門のデザイナーとしても活動。著作の電子書籍「炎のファンキージャズ(万象堂)」は各電子書籍サイトから購入可能880円。
現在はアルバイト生活をしながらDoodlin’再建と「炎のファンキージャズ」の紙媒体での書籍化をもくろむ日々。


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