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終戦記念日

昨年の今日の投稿です。毎年、同じ気持ちでいたいので、再掲することにしました。

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たぶん私は8月15日になると、毎年同じことを書いていると思う。

でもそれでいいのだ。

私はおそらく、親から戦時中の話を聞くことのできた、最後の世代に属すると思う。

だから毎年、終戦記念日を強く意識しなくてはいけない。

そして、子ども時代の夏を思い出さなくてはいけない。

私の子ども時代は、戦争体験者が圧倒的に多かった。

祖父母を中心に、大人たちは寄るとさわると戦時中の話をしていた。

幸いなことに、私の身内には戦死者がいない。

父方の伯父二人が二度戦争に行ったが、生きて帰ってきた。

伯父の一人は、敵の捕虜を殺すよう上官に命令されたが、どうしてもできなかったそうだ。

「俺はどうしても、人を殺すことだけはできなかった」と、繰り返し語っていたという。

伯父は私が大学生のとき、62歳で亡くなった。

丸顔の、いつもニコニコした、優しい伯父だった。

終戦時、父は16歳、母は12歳だった。

父の家は釧路空襲があったにもかかわらず焼け残り、樺太にいた母の一家は、昭和22年に財産のほとんどを樺太に残し、引き揚げ船で引き揚げてきた。

母の家はもともと岩手県の地主だったが、日露戦争後、南樺太が日本の領土になったとき、「一旗揚げるために」私の曾祖父が樺太に渡った。

生涯、労働というものをしたことのない人だそうだが、戦後、GHQの農地解放により、土地のほとんどを失った。

戦後、岩手も戻って間もなく亡くなったそうなので、先祖伝来の土地を失ったショックが大きかったのかも知れない。

母の一家は、時代の波に翻弄され、もはや岩手にとどまることもできず、親戚のつてをたどって北海道に渡った。

北海道内でも、父母の出会いの地である釧路に定住するまで、何か所か転々としたらしい。

母は北海道の身内を訪ねる以外、旅行というものにまったく興味を示さなかった。

生前、私はそんな母が不思議で、「自分自身で世間を狭くしている人だ」と内心、批判的だったが、今になるとよくわかる。

勉強が好きで、学業に励みたかった時期にあちこち転々とする羽目になり、受けたい教育も受けられなかった母にとって、「何を好き好んで、あちこちに行かなくちゃならないのよ?そんなのもうまっぴら」という気持ちが強かったのではないか。

少女期に一生分、放浪し尽くしたのだ、きっと。

「今の子は幸せだ。好きなだけ勉強ができて、好きなものが食べられて」とよく口にしていた父母。

そのありがたみもわからないほど、平和な時代に育ち、大人になってこうして生きている私は、幸せ者です。

その平和の礎を築いてくださった、先人たちに深い感謝を捧げます。

そして、先の戦争で犠牲になった多くの方たちの魂が、どうか安らかでありますように。

平成27年8月15日    堀洋子

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