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湯屋に詠う-SHIZUKU 上野駅前-

朝食は珈琲店で食べることにした。コーヒー1杯の料金でゆで卵と半分にカットしたトーストが付いてくる。窓の外から見える新大橋通り。途切れることなく訪れては去っていく車を眺めながら、パンをかじる。

イヤフォンから流れるラジオ番組のゲストの話が随分と分かり難い。なんでも長い間スピリチュアルな活動をされており、著書も幾つかお持ちのようだが、まったく何のことだかわからなかった。なんだったら俺と同じ感情じゃないないかと思うほどパーソナリティーは薄い相槌を重ね、しまいには「やってみないとわからない部分がありますね」と言ってしまった。伝えることって難しい。

会社を辞めて3カ月が過ぎた。最終出社から一カ月半くらいは有給消化に充てていたため、厳密には1カ月半くらいだが無職が続いている。「何もこんなタイミングで」とは上司や同僚にも言われたが、一度すべてを止めて空っぽにしたかった。幸か不幸か独身で40歳。貯金なんて殆どないが、それをすることで迷惑をかける部分も思いつかなかったし、自分が何を考えていて何をしたいのか、どう生きていくことに興味があるのか、今それを探りたくなっただけのことだ。とはいえ思考整理や各種のアウトプットは時間があるからといって、必ずしも効率よくベストなものを生むわけではない。ある程度の想定はしていたが、ここ1カ月近くは毎日降りかかる自己嫌悪や”たられば”の粉を振り払いながら“いーからやってみろよ”と自責することも少なくはない。いや、やり始めたことも少なくはないのだけどね。

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Smart Stay SHIZUKU 上野駅前

最近の俺にとって、上野という街はディズニーランドよりもテーマパーク感がある。

中学の頃から覗いている雑貨屋や馴染みの床屋に始まり、ラーメン屋にステーキ屋、寄席、アウトドアショップに文房具屋。尊敬していた先輩に初めて連れていってもらったカレー屋が潰れてしまったことは少し悲しかったけど、パークを訪れた人が「1日ではとても回り切れない」と嘆くのと同じく、この上野という街も立派に1日では回ることが出来ない悩ましく愛くるしい。

そしてこのテーマパーク最大のアトラクションがサウナ。上野駅周辺だけでも幾つもの有名サウナ施設が点在する。更に対象を台東区全体に拡げようものなら、数多の魅力的な銭湯が放つ光も重なり、もう細目で歩かないとケバブ屋にぶつかる。

今日は久しぶりにSHIZUKU。2020年にオープンした新しいカプセルホテル。サウナーを意識した運営がチラホラ垣間見え、宿泊ではなく数時間のみ利用する客も少なくない。

受付を済ませ、機械で料金を払ったら部屋着をピックし、地下の浴場へ。ここは脱衣所も含め決して大きくはないのだが、これはこれで良い。必要なものは何なのか、謙虚にシンプルに教えてくれる。

最大で6人ほどが入れるサウナ室はテレビもなく、12分計だけがあるシンプルなもの。まだサウナの楽しみを知らなかった頃、「こんなところに12分もいられるか」と思ったものだが、今となってはこの12分が愛おしい。静かなサウナ室でこの12分を目安に時には無になり、時には己と見つめ合う。この男、無職につき、そんな時間はサウナじゃなくても十分作れるのだが、これはまた別格。これでしか味わえない時間が確かに存在するのだ。

目を瞑り10分ちょっと失礼することにする。

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日向に詠う

確かこのShizukuから数分のところ、仲町通りにある居酒屋に日向(ひなた)と来たことがあった。

日向とは石川町のクラブで出会った。月に数回訪れていた、元町商店街の中にあるクラブイベントにいた。最初に話しかけてきたのは彼女の方だった。

もう20年近く前のこと。針金を使ってスパイラルパーマをかけた俺の頭の中は音楽と女の子で大半を占め、隙間にはサッカーや仲間との遊びを詰めているくらいだから、勉強や将来なんていう雑味はまったく含まれない純度の高いバカな学生だった。付け加えると、イベントに出演していたメジャーデビューを間もなく迎えるアーティストや、オーガナイザーとも多少の付き合いがあったことで、勘違いして生きている真っ最中。

情熱を持ち、やりたいことを続け、それを生業として必死に険しい道を歩む連中。そういう人間がたまたま周囲にいただけなのに、”自分もどこか違う何かを持っている”、”そのうち何か面白いことをやってのける”、なんてことを本気で思っていた“ただの客”だ。

日向もそのアーティスト目当てにイベントへ来ていたようだが、彼らと親しく話している俺を見かけることも多くなり、会えば他愛もない会話をするようになった。

細身の体にショートカット、若干切れ長の目に色白な肌。確か秋田の生まれで東北美人。惹かれるまでに大して時間もかからない。東京でOLをしていた彼女の仕事終わりに待ち合わせ、二回目のデートではホテルにいた。どちらかというと出会いよりも別れのほうが鮮明に記憶されていて、確かどこかのファーストフード店で「あなたの夢を一緒に追いかけていきたい」と言われたことがきっかけだ。

その言葉を結婚と捉えた節もなくはないのだが、自分には夢もない、大学に見向きもせず、ただ遊んでいるだけの毎日を過ごしていることに既に薄々後ろめたさを感じ始めていたのだろう。純粋に彼女は”あなたに何か夢があるなら、一緒に追いかけたい。ずっと一緒にいたい”という想いで言ってくれたのだろうが、あの時に俺は変な汗を背中に流しながらフライドポテトを頬張っていた。

あれから20年、夢を持つときもあれば、そんなことも考えずにただ必死に毎日を過ごす日々もあった。数カ月前までは部下を20人ほど持ち、部長に昇格予定でもあった。あのまま続ければ本社が日本法人を作って以来、はじめて英語を大して話せない部長が生まれた。英語よりマネージメントやリーダーシップに習得優先度を上げていたにも関わらず、そこまで辿り着けたことに誇りを持ち、そして辞めることに決めた。経営に大きく本社の意向が介入する外資系企業で、十分な英会話ができない部長は必要ない。そのポジションが見えてきても英語習得に大した熱を上げなかった自分だ。今後を考えるには良いタイミングだった。

なぁ日向。
俺はまた夢がなにか、何がしたいのかを考えているよ。でもきっとこれは死ぬまで続くのかもしれない。ただあの頃よりも、それと向き合っているかな。だから何か生まれるかどうかなんて知ることはないけどさ、もうちょっと続けてみるよ。

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SHIZUKUの水風呂はしっかり冷たい。大人二人も入れば十分なサイズ感なのだが、今日は同士が3名のみ。それぞれ時間もズレているから、マイペースに3セットを終える。

テーブルに座りオロナミンCとポカリスェットをブレンドしたオロポを頼む。ここは宿泊施設で、フードメニューも豊富だ。漫画も豊富にあって若い客も珍しくない。

さ、鈴本演芸場の夜の部に行くか、大統領あたりで少し飲むか。遊んでる場合か?大丈夫、もう分かり始めているんだ。


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