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出・ナガサキ

連続岐路エッセイその①

 一九九四年、当時十九歳だった私は大学進学のために長崎を出た。将来に対する目標など、何も持たない無気力な若者だった私は、ただ「このまま働きたくない」という、とても後ろ向きな理由で進学を志していた。大学選びも「演劇サークルがあるところ」という、学問とは何ら関係のない部分を重視していた。そしてとにかく実家を、長崎を出たかった。

 なぜ演劇サークルなのか?
 何も打ち込むもののない高校時代を送った当時の私が唯一やりたかったものが演劇だった。
 そもそも、中学時代の文化祭で無理矢理振り分けられたのが演劇班だった。演劇にまったく興味がなかった私は、役者をやらない代わりに照明と音響を担当させられることとなった。そこで、表舞台を陰で支える裏方に大きな魅力を感じたのだ。一度ちゃんと演劇を学んでみたい。そういう意識は常にあった。しかし、その中学には演劇部がなく、それ以上の活動をすることはなかった。
 高校でも一応演劇部に入ったが、大した活動はしなかった。顧問の教諭が指導に熱心ではなく、学校側も特に力を入れていなかった。高校部活の花形と言えば野球部やサッカー部、バスケ部などの体育会系。文化系の部活動なんて、学校からしたらあってもなくてもいいものだったのだろう。こんなとき志の高い人物であれば「俺たちで盛り上げて、学校の意識を変えてやろうぜ!」などと意気込むのかもしれないが、そんな映画になるような行動力はまったく持ち合わせていなかった。何せ無気力な若者でしたから。それに、今はどうか分からないが、当時男子高校生が演劇部に所属していること自体、女々しくて、かっこ悪いという認識が強かった。
 そんな経緯があって、特に将来に対する目標のない私が唯一ちゃんとやってみたかったのが演劇であった。日本大学の芸術学部には演劇科がある。役所広司など多数の有名俳優を輩出している舞台芸術学院という専門学校もある。それらの学校に進学したいという希望もあったが、学費は高く将来の役にも立たない。とても親に相談できるような話ではなかった。

 なぜ、長崎を出たかったのか?
 これは言葉で説明するのが難しいし、確かな理由というものもないような気がする。あえてそのときの感情を言い表すならば「衝動」なのだろう。
 この場所から出たいという衝動。ここで終わりたくないという衝動。もっと新しい世界を知りたいという衝動。都会で暮らしたいという衝動。親の監視下から逃れたいという衝動。
 所詮学生なのだから経済的な部分では親の庇護下にある。それでもライフスタイルの大部分を自分ひとりで決められる暮らしというものに強い憧れを持っていた。
 高校三年のとき、記念受験で初めて訪れた東京。渋谷ハチ公前で友人を待つ間、109のビジョンからは当時のヒット曲、氷室京介の「Kiss me」、ドリカムの「決戦は金曜日」のPVが流れていたことが何故か強く記憶に残っている。スクランブル交差点は見たことがないほどの人の波、波、波。携帯電話のなかった当時、待ち合わせは相手を信じて、ただ待つしかなかった。
 少し遅れて到着した友人とセンター街を歩いた。オクトパスアーミーで古着を買い、渋谷系音楽が鳴り響くHMVの店内でCDを物色する。友人と別れて、山手線で新宿に場所を移す。〝いいとも〟でお馴染みのアルタ前を抜けて、当時はまだまだ危険なイメージの強かった歌舞伎町のネオン街を目を細めながら歩いてみた。しつこい客引きから逃れるように(当時の客引きは本当にしつこくて悪質だった)奥へ奥へと進んでいくと、急に人気のない路地へと迷い込んでしまった。道の両端にはアジア系からロシア系まで、さまざまな人種の女性がおよそ五メートル間隔で立っている。いわゆる〝立ちんぼ〟のエリアに足を踏み入れてしまったことは即座に理解した。戻ってまた諦めの悪い客引きを相手にするのもうんざりだったが、十数人はいるであろう立ちんぼの間をそ知らぬ顔ですり抜けていく勇気がこのときの私にはなく、客引きに絡まれないように強い意志をもって、急ぎ足で引き返していった。
 ――東京は怖かとこばい。
 これまでに東京を訪れた数多くの田舎者が抱いたであろうこの感情を、ご多分に漏れず私も抱いた。
 初めての東京では、酸いも甘いも経験することとなったが、それら全てをひっくるめて都会は魅力的であり私の好奇心を大いに刺激した。それ以来〝いずれ東京に〟という思いは強くなっていった。しかし、東京はお金がかかる(この定説はのちに東京で暮らすようになると、必ずしもそうではないということが分かるのだが)。うちの経済状態を考えると、東京での一人暮らしは無理だ。親からも「九州内の国公立以外は金出さん」と言われていた。

 それでもせめて〝長崎よりは都会に〟という思いは強かった。もっとはっきり言ってしまうと、長崎市より田舎にある大学や私立の大学は考えなかった。当時の私は、二十歳前後の数年間に「何を学ぶか」ということよりも、多感なその時期を「どこで過ごすか」の方に重きを置いていた。大学に行ったってどうせ勉強なんかしない、それならアートやカルチャーを含めて数多くの〝遊び〟の選択肢のある都会で過ごす方が有意義な生活を送れるんじゃないかと考えていたのだ。これも一種の逃避である。
 演劇と都会度と家庭の事情と自身のポテンシャル。それら全てを勘案して着地点となったのが、北九州にある某大学であった。私の記憶が正しければ、大学の入学式のその日に演劇研究会の門を叩いたはずだ。

 北九州が都会か? と問われれば、それは賛否あるかもしれない。しかし長崎から出てきて、小倉駅前にある百貨店〝そごう〟を初めて見たときには「おおー! でかいデパートだ。都会だ!」と感じたし、北口にはお洒落なファッションビル〝ラフォーレ原宿小倉店〟(ラフォーレ小倉店ではなく、『ラフォーレ〝原宿〟小倉店』なのだ)もあったし、紺屋町、堺町など夜の歓楽街は長崎の銅座、思案橋界隈に比べてもエリアが広く活気があって、田舎から出てきた若者の心を躍らせるには十分な環境であった。
 おっと、随分と話が長くなってしまった……。北九州での暮らしについては、次のエッセイで書こうと思う。とにかく私は進学を機に〝出・ナガサキ〟を達成したのだった。

 人生には「あの時が一つの岐路だったんだな」と後になって思い返すことが度々ある。私の場合、一つ目の岐路はこの頃だったのだろうと思う。高校時代、ちゃんと勉強していたら、ちゃんと大学を選んでいたら、ちゃんと目的意識を持っていたら……。考えても詮無きことだが、そう思わなくもないのである。


つづく

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