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雪原の桜(1)

穂村1

 築地にある国立がんセンターを出た穂村雄介は、地下鉄に乗って新宿へと向かっていた。今日は歌舞伎町で綾野と飲みに行くことになっている。座席に腰を下ろすと、向かいに座る六歳くらいの女の子が隣の母親にプレゼントをねだっている。「はいはい、いい子にしてたらサンタさんが持ってきてくれるかもね」と母親は軽くいなす。
 今日はクリスマスイブだ。その隣では二人組の女子高生が、これから行くのであろう友達の家でのパーティーの打ち合わせを時折笑い声を挟みながら賑やかに話し込んでいる。さすがに高校生ともなると、サンタクロースが実在しないことは分かっているだろう。隣に座る小さな女の子はいつ、その秘密を知るのだろうか。どこか遠い国の白ひげをたくわえたおじいさんがトナカイの引くソリに乗って自分の家までやってきて、寝ている間にこっそりと欲しいものを置いていってくれる。それが実は、自分の両親が用意周到にやっていたんだという真実を知ったとき、夢のない現実に落胆するのだろうか。それとも、親の愛情を素直に受け入れてくれるのだろうか。
 翌朝、枕元のプレゼントに大喜びしながら報告する子供の笑顔を見ることを、知らんぷりをしながらも楽しみにしている親の喜びがどんなに深いものか、いつか分かって欲しい。心からそう願う。

 穂村にも聖奈と名付けた一人娘がいる。いや、いたというべきか。今は会うことができない。妻の奈央と離婚したのはちょうど聖奈が小学校の入学式を迎えるころだった。しかし、誕生日やクリスマスには奈央を介して、穂村からのプレゼントを送ることは了承してもらっている。今年は娘が大好きなアニメの主人公の変身グッズをプレゼントした。
 離婚の理由は穂村の浮気……ということになっている。あえて女性ものの香水を匂わせながら帰宅したり、プレゼント用にパッケージされた指輪の箱を分かりやすいように仕事用の鞄に入れておいた。携帯電話も自分でもう一台購入して、普段使っている携帯にあたかも女性からの着信やメールが残るような小細工をした。それまで七年間の結婚生活では、特に大きな問題を起こしたことがなかっただけに、浮気に気付いた妻は大きなショックを受けたことだろう。
 綺麗なまま別れたくなかった。妻にとっても娘にとっても、できるだけ憎むべき存在として別れようと思った。買っていたマンションの名義も妻に変えたし、銀行に預金してあるお金もすべて妻の口座へと移した。その代わり、月々の養育費は最初の一年だけという条件にしてもらった。

 このまま妻と娘と、平穏な生活を続けていってもいいんじゃないか、そう思い始めてる頃だった。
 会社で行っている年に一回の定期検診で、再検査となったのが今年の始め。大きな病院で胃カメラを飲まされ、診断された病名は食道がんであった。しかも、結構な大きさに進行しており、肺や肝臓への転移もあって、手術で取り除くのは困難だということだった。やはり運命は、甘い考えを許してはくれなかったのだ。
 余命が圧倒的に短くなるリスクがある手術をするか、放射線治療を続け、だましだまし生きながらえるのとどっちがいいか、医者に選択を迫られた。手術ではなく治療を選んだところで余命は一年、治る確率は二◯%程度。
しかし穂村は迷うことなく、後者を選んだ。一年あれば……かつての過ちの精算が出来るかもしれない。
 穂村があえて憎まれて離婚したのは、彼女たちに終末看護の苦しみを味わわせたくないとか、愛するものの死に悲しむ姿を見たくない、などといった理由からではない。ひょっとしたら犯罪者の家族になるかもしれない、犯罪者の妻と娘――そんなみじめな生活を二人には送って欲しくない。そう思ったからだ。

 母親の素っ気ない態度に女の子がぐずり始めた。気付いた隣の女子高生が、鞄から取り出したチョコレートをあげてあやしている。今どきの高校生にしては珍しく、優しい子だ。うちの娘はどんな中学生になり、どんな高校生活を送るのだろう。勉強が出来る子に育つだろうか、運動音痴にはならないだろうか、初めて付き合う男はどんな人間なんだろうか。
 来年は二年生になるから、プレゼントは文房具か何か実用的なものの方がいいかもしれない。洋服やアクセサリーなんかを欲しがるかもしれないし……そう考えたところで、はたと気付く。もう来年のプレゼントなんか考
える必要がなくなっていたということを――。誰かの成長を見届ることができないということ。将来に対する不安がなくなる代わりに、将来を考える楽しみがなくなるということ。未来を失うというのは、そういうことだ。

 先ほど医者と話し合って、もう治療を続けるのはやめることに決めた。あとは、体がどれくらいもってくれるのか分からないが、残りの人生を悔いのないように過ごす選択をしたということだ。
 これから最も迷惑をかけるのが恐らく綾野になるだろう。今日はちゃんとすべてを話そう。新宿に着いて、歌舞伎町の入口にあるドンキホーテを目指して歩きながら、穂村はそう決めていた。

(つづく)

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