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八月九日について思うこと

 八月九日、午前十一時〇二分――。
 長崎では大人も子供もみな一斉に動きを止め、かつての被害者たちに黙祷を捧げる。いや、厳密にいうとみんながみんな黙祷するわけではないだろう。車を運転中の人、接客中の人、現場仕事の真っ只中の人などはそれどころではないのかもしれない。ただ、心のどこかで「ああ、この日この時間か」と思いを馳せる。せめて長崎に生まれたからには、せめて何か縁があって長崎に住んでいるからには、そうあって欲しいと願うのは、被爆二世として生まれた俺のわがままだろうか。

 もう二〇年近く前の話になる。東京に住んでた頃に勤めていた会社に、気に入らないことがあると所構わず怒鳴り散らす上司がいた。社員たちは自分の職場にその部長が来るとなると、いかに自分が標的にならずに済むか、怒らせずにやり過ごせるか、対応に腐心していた。社内に敵も多かったみたいだが、俺はこの部長が嫌いじゃなかった。何の当てもなく上京して、フリーターとして日銭を稼ぎながら生活していた当時の俺を拾ってくれたのがこの部長だったから、彼に対する恩義もあった。後で他の社員に聞くと「あの部長は九州が好き過ぎて、九州出身というだけですぐに採用しちゃうんだよね」ということだったが。
 ただ、部長が怒るときにはそれなりの理由があって、それは「掃除が行き届いてない」だとか「社員の服装がだらしない」だとか「挨拶の声が小さい」だとか、いかにも昭和の精神論的な発想であったが、客相手の仕事においては基本中の基本でもあった。
 あるとき、職場に抜き打ちで部長がやってきて、さんざん怒鳴り散らしたことがあった。部長が帰った後、台風一過という風情で同僚たちが次々に部長の悪口を言い始めた。
「あいつなんであんなキレてんだよ、カルシウム足りてねーんじゃねえの?」
「いや、部長ってすることないから、キレることが仕事なんだよ」
「いやいや、あいつピカドンにやられてるから脳が沸いてんだよ」
 最後の一言に一同がどっと笑った。俺は話の輪からそっと離れた。
 件の部長は広島出身の人物であった。はっきりした年齢を聞いたことはないが、恐らく広島に原爆が落とされた当時、幼少期であっただろうと推測される。
 この発言をした人物は仕事が出来る博識な人で、職場の人気者であった。俺も仲がいいほうだった。その彼にも、周りで笑った人にも悪気は無かったと思う。むしろタブーに踏み込んだちょっとインテリジェンスなギャグといったニュアンスすら含まれていたと思う。
 翌日、俺の元へその彼が近寄ってきて、こう謝った。
「中野さん、昨日ちょっと冗談で原爆のこと言ってごめん。中野さんが長崎出身だって後で思い出して……。本当すいませんでした」
「いや、いいっすよ。気にしないでくださいよ。俺も被爆二世ですけどね」
 俺がへらへらしながらそう答えたときの、申し訳ないまま困惑したような彼の表情は、今もありありと思い出せる。
 このとき俺は笑って許してよかったのか、怒るべきだったのか、ショックを受けるべきだったのか、どう対応すべきか分からなかった。そして十数年経った今となっても、その答えは分からないままだ。
 そんな出来事があってから、それまで漠然と信じていた「八月六日と八月九日に何があったのか日本人なら誰でも知っている」だとか、「広島と長崎の人々はみんなから慈しまれている」だとかいう認識は自分たちのエゴだったのだろうと思うようになっていった。戦後どれだけの時間が経っても、何かの拍子に差別意識が出てきてしまう人間は意外と多いのかもしれない。当事者の家族としての認識と、そうではなかった者の認識。その違いを改めて思い知った。

 去年、二十年振りに長崎に戻って生活することとなった。八月九日が近付いてくると、どうしても色々と考えてしまう。七〇年前のあの日もこんな暑さで、晴れ渡った空模様だったのだろうか? 被爆前の長崎の街並みはどんな感じだったのだろうか? いま自分が立つ上空に突如現れた巨大なきのこ雲を当時の人たちはどのような思いで見上げていたのだろうか?
 原爆の日と言っても長崎の人間の中にも何も思わない人が多くなっているのかもしれない。原爆資料館を訪れる修学旅行生の親から「子供がトラウマになるからやめて欲しい」とクレームをつけられたり、先の大戦を学ぶことは「自虐史観を助長する」と言われたり、平和や戦争反対を訴えれば“サヨク”のレッテルを貼られたりする昨今だ。
 七〇年も経ったのだ。もはや戦後は終わったのだろう。
 そこにイデオロギーや思想を挟むつもりなど毛頭ない。長崎に生まれ育った多くの人も、被爆者のうちのほとんどの人も、誰が悪いだとか、誰を恨んでいるだとか、そういう話をしているのではない。長崎に原爆が落ちたという事実を粛々と受け入れ「二度とあんなことは起きて欲しくない」と祈るのみ。カトリックに多くの被害者が出た“祈りの長崎”の本質はごくごくシンプルだ。

 街を歩けば、前庭で精霊船を造っている家がある。墓地からは矢火矢(やびや:ロケット花火のこと)を飛ばす音や爆竹が爆ぜる音が聞こえてくる。食堂からは高校野球の実況の音が漏れてきて、港のある地域ではペーロン船のリズムを刻むドラの音が聞こえてくる。
 そして、八月九日、午前十一時〇二分――。
 浦上天主堂にある鐘楼“長崎の鐘”が打ち鳴らされ、街中にサイレンが鳴り響くと、大人も子供もみな一斉に動きを止め、かつての被害者たちに黙祷を捧げる。
 これらすべてをひっくるめて長崎の「正しい夏」だ。

 せめて長崎に生まれたからには、せめて何か縁があって長崎に住んでいるからには、そうあって欲しいと願うのは、やはり俺のわがままだろうか。

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