「日米合同の非公然情報部隊」が行っていたこと
実在の別班の起源は、警察予備隊時代に遡る。警察予備隊創設は1950(昭和25)年だが、日本側の情報専門家を育成するため、1952(昭和27)年より警察予備隊の中堅幕僚を在日米軍情報部隊に出向させ、情報収集・分析の研修をさせるようになった。
その後、1954(昭和29)年、日米相互防衛援助協定(MSA協定)が締結され、正式に自衛隊が発足したが、その水面下で極東米軍司令官ジョン・ハル大将が吉田茂首相に書簡を出し、陸上自衛隊と在日米陸軍が非公式に合同で諜報活動を行うという秘密協定が結ばれた。
その秘密協定に則り、まずは陸自側の専門家を本格的に養成すべく、前述した情報研修が大幅に拡充された。米軍側の担当は、当時のキャンプ・ドレイク(キャンプ朝霞)に置かれた米陸軍第500軍事情報旅団の「FDD」と呼ばれる分遣隊で、自衛隊側の隊員もそこに詰めた(第500軍事情報旅団本部はキャンプ座間)。
1961年撮影の旧米軍キャンプ朝霞(キャンプ・ドレイク基地)(Copyright © National Land Image Information (Color Aerial Photographs), Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism, Attribution, via Wikimedia Commons)
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この情報研修で鍛えられた要員を集め、いよいよ日米合同の非公然情報部隊が設立されたのは1961(昭和36)年のことだ。この部隊を陸自では情報部門を統括する陸幕第2部(現在の陸幕指揮通信システム・情報部)の部長直轄とし、部内では特別勤務班(特勤班)と呼んだ。特別勤務というのは、陸幕ではなく米軍キャンプ朝霞に平服で勤務するからで、この特勤班を、ときに別名「別班」と呼んだ。
この特勤班=別班は事実上、米軍のFDDに自衛隊員を協力させるスキームだった。建前上はトップに米軍FDD指揮官と陸自の別班長が同格で構成する合同司令部が設置され、その下に「工作本部」および日米おのおのの「工作支援部」が置かれた。工作本部には3個工作班が設置され、各工作班には3~4人ずつ配置された。工作員は合計で十数人程度。その他に工作支援担当者がいて、陸自側の別班全体の陣容は約20人だった。
活動内容は基本的にソ連、中国、北朝鮮など仮想敵国の情報収集だ。商社員や記者など海外を往来する人から話を聞いたり、そういった人に依頼して外国で情報を集めてきてもらったりした。その内容は米軍と陸幕2部の両方に報告された。他にも、ときに朝鮮総連や在日中国人実業家などの人脈に接触して情報をとるなど、公安警察や公安調査庁のような活動も行った。
もっとも、別班の活動予算は多いときでも月額100万円程度。協力者への報償費も数千円から、多くて2万円程度だった。サラリーマンの平均月収が5万~7万円の時代だから、現在の貨幣価値なら7倍以上にはなるだろうが、それでも公安警察などとは比ぶべくもない小規模なレベルである。後に一部メディアで「多額の資金を使って活動する得体の知れない謀略機関」とのイメージで報じられたこともあるが、それはかなり誇張されたものだったといえる。
別班は前述したように発足当初は陸幕2部長が直轄していたが、その後、2部内に連絡幕僚が置かれ、さらにその後は陸幕2部内の情報1班長が統括するようになった。つまり陸幕第2部情報1班特別勤務班というかたちである。後に一部メディアに「陸幕長も防衛庁長官も存在を知らない秘密機関」と報じられたこともあるが、当時を知る元隊長は「米軍との共同機関なので非公然ではあったが、上層部が存在を知らないということはないはずだ」と筆者に証言している。