1999の個人的解釈 〜意志と変わらぬ愛の歌〜

本題に入る前に

まず、わたしにとっての解釈の大枠を示しておきますね
ひとによって信じたいもの、愛したいものは本当にそれぞれだと痛感したこの1年だったので
この先の文章は、楽しんでくれるひとにだけ、楽しんでほしいと思っています

これが全てではないけど、これを主軸のひとつとして書いた文章なので、これを見て「合わないな」と感じられた方はブラウザバック推奨です
ご自身の解釈をどうか大切にされてくださいね🫶

ということで、楽しんでいただけそうな方は引き続きどうぞ!

聴く前後で印象が変わった1曲

まず、曲を聴く前の印象。
彼らの公式SNSでの前情報は「#廉と海人の1999」(のみ、だと言ってもいい)だったわけです。
なので、「1999生まれの同志がお互いに贈り合い分かち合うお手紙のような曲なのかなと思っていた」とポストしているように、この曲は2人だけを文脈に据えて聴くべきものなのだと思っていたし、最初は当然その視点から聴き始めたのです。

しかし、曲を聴いていくにつれ、「おや…?」と違和感を感じる場所があるなと気づき、「廉と海人だけの1999」(=わたしが最初に抱いていた印象)ではなさそうだな…?と感じるに至りました。
そのお話はまたおいおい。

一節一節、(わたしなりの解釈で)歌詞を紐解いてみます

朝日が昇る一瞬
新しい今日が来る
昨日を詰めた段ボール
揺れる足元のGray

この一節が表しているのは、きっと2人にとっての新たな始まりの日。
これまでに5人で過ごしてきた日々の思い出はしまい込み新しく2人での日々を始めていくのだという決意、踏み出さないといけないのにそれを躊躇わせるかのようにつきまとう不安。
そんなふたつの相反する感情が同居する、あの日の2人の等身大の姿が表現されているのだと感じました。

ちなみに余談ですが、この一節を聴いてMrs. GREEN APPLEさんのSoranji(「始まりの朝が来る」からAメロが始まる)を思い出すなどしました。
この半年間、彼らの姿を何度もこの曲に重ね合わせちゃってた部分があるのでね、なんでもかんでも結びついちゃうオタクの性…
だからこそ真っ直ぐこの解釈に辿り着いたのかもしれないな、なんてね。

行かなきゃなって切り出して
うなずくまでのMoment

海人くん(=作詞者であり、このパートの担い手)視点から見た、隣にいる廉くんの姿を連想しました。
初日、まさに始まりの日の、始まりの瞬間。
Momentには、きっとすぐには言葉にできないもしかしたら本人にも実態を掴みきれていない、渦巻く感情が込められているのでしょう。

もちろん私自身もリアルタイムでその日を迎え、その日の彼らの姿を見させていただいたわけですが
そこには変わらず自然体で朗らかであったかいふたりがいたこと
でも、ちょっと手探りっぽい様子で言葉を交わしていた瞬間があったこと
そんな姿を思い出しました。
これまで通りいてくれていたように見えた2人だったけど、きっとそういるためには相当な覚悟があったのだろうな、と
ここまでを聴いて痛感しました。

意地っ張りな僕らなりに
同じ歩幅歩いていた

「同じ歩幅」というのが、なんとも同じ年に生まれ同じだけの時間を過ごしてきた2人っぽい。
10代半ばからずっと一緒に時を過ごし一緒に数々の経験を共にしてきた2人だからこそ、その感覚もひとしおなんだろうなと思います。

Bメロ前半が始まりの瞬間を表現していたのに対し、後半は「歩いていた」という表現によって、一気に今日に至るまでの道のりという時間的広がりを感じさせます。

わたしには2人が互いに意地っ張りだという印象はないけどな…とも思ったわけですが(だっていつもあんなにお互いめり込んでるやん)、この半年の間にも言葉を交わす機会や重ねてきた時間が確かにあるわけで、その中で2人の関係性にも変化があったのかもしれないな、なんてことを思ったりもしました。
意地っ張りがめり込みツインズに。半年の力ってすごい。

どんな日も きっと思い出すの
過去になって 色褪せても
この歌がきみに残るように
Baby, I got your back
朝が暗くても
その名前 そのままで
Oh, if I could be your color

2人は歩き出したばかりのはずなので、歩みを止めたあとのことに思いを馳せるんだ…?とちょっと不思議に思いはしましたが
でもきっと、それだけ永遠に近いものを、誓い合ったということ。

ここでいう「その名前 そのままで」には、「その名前」=「貴方そのもの」ということで、「どんなときもあなたらしく」という意味が込められているんじゃないかと解釈しました。
廉くんの他者を否定しないあり方がわたしはとても大好きなのですが、海人くんも同じようにその姿勢に感銘を受けているのだろうと(実際、何度もそう言葉にしているのを見てきたので)。
お互いをありのまま大切にするというあり方が2人の間に共有されていることが伝わり、とても心温まりました。

そして、「Oh, if I could be your color」
…廉くんのソロ曲、「きみいろ」だぁ〜…!
こうやって織り交ぜてくるあたり、海人くんの小粋なセンスとでっかい愛に痺れます。
そうだね、廉くんいろに染まれたらいいね…感涙感涙

見慣れない町のランドマーク
見渡す僕はStranger
高鳴る鼓動
行き交う人の中で踊るOne verse

ここは正直、最初に聴いた時はめちゃくちゃ難解でよくわからなかった。
…ので、一旦置いときます。

手を伸ばしたって触れないこと
まだ慣れないけれど

ここなんすよね。
「おや…?」です。

前述の通り、2人は歩き出したばかり。
「手を伸ばしたって触れないこと」なんて、あるはずないんです。(だって日々あんなにめり込んでるし)(何度でも言う)

とすると、ここで思い浮かぶのは3人のこと。
「まだ慣れないけれど」と、触れなくなったのはつい最近のことなんだろうなと推察されるわけで、じゃあきっと間違いないだろうと。
この歌詞の文脈には2人以外の3人も存在するんだなってことに気づかされるんですよね。

これを踏まえて、2番Aメロに戻ってみます。

見慣れない町のランドマーク
見渡す僕はStranger
高鳴る鼓動
行き交う人の中で踊るOne verse

まず、ひとつひとつの単語の意味を確かめることから始めます。
(そこから入った方が解釈に落とし込みやすいと思うので)

・ランドマーク:景観における目印
→ちょっと無機質な印象。
町の中にそびえ立つ、大きな存在なのかな
・Stranger:知らない人
・verse:詩

まず、「見慣れない町のランドマーク」
直接的な表現をするのは野暮かもしれないけど、新しく建った事務所のことかな、なんて思いました。
無機質な感じ、大きい感じ、誰かにとっての拠り所、導いてくれる存在であるところがそれっぽい。
あと、その頃自分の周りに巻き起こった数々の変化の意味も微かに内包しているのかなと、そういうふうに解釈しました。

「見渡す僕はStranger」
ここから感じ取った意味はふたつ。
ひとつめは、この節の1文目との繋がりから、「この変化からは隔たりのある自分」。
(一応釘を刺しておくと、そこにマイナスの感情を見出したいのではなく、干渉しないという尊重のかたちだと認識しています)

ふたつめは、「なにもの」。
そう、変化の中での2人にとっての1曲目。
それ以降の歌詞と照らし合わせてみると
「高鳴る鼓動」→「鳴り響いたはじまりの鐘の音色」(1番サビの第1文)
「行き交う人の中で踊るOne verse」→「この歌よ 風に乗れ」(曲の1番最後)
そう、リンクする気がしています。

このふたつの意味を踏まえた上で、2番Aメロは
自分には手の届かないような変化が巻き起こっている世間の中、そのどこかに懸命にもがき存在している自分がいるんだよ、ってことが描かれているのだと感じました。

「もう弱音?」なんて笑うだろうなぁ
違う歩幅で僕らは

2番Bメロに戻ります。
おさらいですが、この直前では3人の存在に触れられているわけです。

ここで気になるのはこの「もう弱音?」は誰から発せられているのか、だと思います。
相方なのか、3人の兄のうちの誰かなのか。
はたまた、これは3人側からの視点で、弟2人からの言葉なのか。

でもわたしは、誰からなのかなんてことは、どうでもいいと思っています。
それよりも着目すべきは、「まだ」ではなく「もう」であること。

こういうことあんまり言いたくないしわたしは決してそんなこと思わないんだけど、「3人は2人を裏切った」という認識でいる人って今でも一定数いて。
その文脈だと「まだ弱音?」=「道を分かつことを切り出されてからこんなに経つのにまだ切り替えきれてないの?」という流れになるのかもしれないのだけど
でも実際は、「もう弱音?」なんですよね。
決意して踏み出した過去が確かにあるということ。
「踏み出したのに、もう?」っていう繋がりになるわけです。

たったの2文字で「不可抗力じゃないんだ、自らの決意なんだ」という意思が表されているという、海人先生の言葉の使い方に脱帽です。

そして、「違う歩幅で僕らは」。
相方とは同じ歩幅なんだろうなということを踏まえると、3人を含めての「僕ら」なのでしょう。
今、追い求めるものへのスピード感やアプローチはそれぞれ違っているのかもしれないけれど
「僕ら」という表現に仲間であった過去、今もどこかで(心理的に?)繋がっていることが表されているようで、個人的にはなんだか嬉しく思う一節です。
あと、どんな歩幅であれど歩き続けている貴方たち全員、世界一かっこいいよ!

どんな日も 歩いてくの
夢中になって 歌い出して
それでも泣きたいくらい
Baby, don't worry about me
夜が痛いなら
この名前 ふと呼んで
Oh, if I could be your one part

2番サビ。

「夢中になって 歌い出して」は、それぞれの道でやりたいことに無我夢中になるほど熱中しそれが形になり実を結んでゆく様

「それでも泣きたいくらい」は、そんな充実してゆく日々の中でも過去の思い出たちは涙が出るほど愛おしいものであり続けているということ

そして、「Baby, don't worry about me」
もしかしたら怒られちゃう解釈かもしれないけれど、グループ内で末っ子の立場にいた海人くんが表れている気がするんですよね。
弟って、やっぱり心配されがちな存在。
そんな海人くんからの「don't worry about me」には、ひと回り大きく強くなったんだ、だから大丈夫なんだ、っていう兄たちへのメッセージが表れている気がします。

そして、それを受けての
「夜が痛いなら
この名前 ふと呼んで」
痛みを知っている海人くんだからこそ、長く一緒に過ごしその姿を見てきている海人くんだからこそ、兄たちに自然とこういう言葉をかけられるのかなと。
「心配しないで」からの相手を慮る一言。
この優しい強さこそ、巣立ちの象徴だと感じます。

ここでの「この名前」は彼らのグループ名を指していて、「ふと呼んで」は「ふとそのときの思い出を呼び起こして」ということかな、と思っています。

「Oh, if I could be your one part」
=「貴方の一部になれていたら」
一緒にいることができずとも、過ごしてきた時間は奪われないしその時間がその人に影響を与えた事実は変わらないわけです。
自分がそういう存在であれたら、という切なる願いだと解釈しました。

春の昨日 雨の匂い 夜の音
窓の向こう 涙の跡

情景描写の羅列。
「春の昨日」ということは、今日は初夏なのか夏なのか。
この今日はどの年においてのそれを指しているのか。
デビューした日も、道を分かつことを切り出された日も、新たなスタートを切った日も、大きな変化があったのは全部この時期だなぁって思いました。
答えがどれなのかはわからないし、その後に続く描写も具体的には何を示すのかはわからないけれど
でも自分の中でなにか印象的な光景なのかもな、それかもしくはご本人たちが聴けば何のことなのか通じ合うものがあるのかもしれないな、いずれにせよそうだとしたらそれを自分(たち)の中で大切にしてくれたらなって、そう思ってしまいます。

あともうひとつ
抽象的な概念が並んでいる中、最後の「涙の跡」だけ極めて具体的で普遍的な描写だなって。
それだけ強く印象に残っているのかな、そのくらい生半可ではなかったのだろうななんて、(勝手にで申し訳ないけれど)思いを巡らせてしまいました。

僕がいて
きみがいた
意味も嘘もない

TraceTraceの歌詞
「僕がいた 君がいた ここにいた
ただそれだけさ」
を彷彿とさせます。

僕ときみが指すのは、きっと5人(ないしは6人)のこと。

ここ、歌詞だけだとわからないですが実際の曲では「ない」をもう一度繰り返すんですよね。
それも、2回目はとても力強く。

「意味もない」と力強く言われてしまうと「じゃああの日々は何だったの…?」という気になってもしまいそうですが。

でも、「嘘もない」んですよね。
わたしは、ここにとても救われた。

意味づけをするまでもないほど、僕がいてきみがいることは当然のことだったのではないかと。
ずっと続いていくものだと思ってたっていう、いつかの廉くんの言葉とも重なる気がします。

共に時を過ごした日々のことは自分たちにしかわからないんだ、外から何かしら定義付けされることに意味などないし疑うような言葉はどれも的外れなんだ、というメッセージだと受け取りました。
外からむやみに壊される筋合いなどどこにもない、心の底から大切な日々だったんだろうなぁ

どんな日も きっと思い出すの
過去になって 色褪せても
この歌がきみに残るように
Baby, I got your back
朝が暗くても
その名前 そのままで
Oh, if I could be your color

ラスサビです。
歌詞こそ1番と同じですが、個人的にはちょっと違って聞こえるな、と思いました。

「きみ」の概念の広がりと。

「Oh, if I could be your color」も、2番を経ることで
「あなたの色に染まれたら」だけではなく、「あなたの色(の一部)になれていたら」という意味もあるんだろうなって、そう感じました。

そして何度聴いても、あったかくて心強いサビです。

タイトル「1999」に込められたもの

タイトル「1999」に込められた意味ですが、大きくふたつあると思っています。

ひとつめは、相棒である廉くんとの共通項。
だって、「廉と海人の1999」ですからね。
ほぼ同じだけの日々を歩いてきた同志で、きっと歳が近いからこそ分かち合えてきたことがたくさんあるのだと思います。
そしてそれはこれからも。
2人が一緒に歩いてゆく日々のこれからが、心から楽しみです。

ふたつめは、「弟」という視点。
もちろん、彼らを弟という枠に閉じ込め続けることには呪縛になってしまう面もあると思うし、ふたりはその枠に収まらないほどの魅力に溢れたひとたちだということは理解しているつもりです。
ただ、年を表す数字には、時には、やはり先と後の概念があって。
世間一般でも、年齢順によって物事の見え方が異なるというのはある種当然のことでもあります。

そんな年を表す数字をタイトルにした意味。
あの5人ないし6人の中における末っ子って、海人くん(と廉くん)だけなわけで。
それはある種、特権だとも言えると思います。
そんな彼(ら)だからこその目線から綴られ、彼(ら)だからこそ歌える歌、それがこの1999。
こうしてめいっぱいの愛を込めて世に送り出してくれたこと、感謝の念に耐えません。

意志と変わらぬ愛の歌

タイトルにしっかり書いちゃってますが笑、わたしにとって1999はこういう歌です。

相方への愛。
兄たちへの愛。
それが、この曲を構成する二本柱で。

そして細かな言葉遣いに、確かな意思が込められているのだと、そう感じています。

おわりに

実はわたし、なにかの歌詞をここまで深く考察するのって初めてで。(それゆえにうまく咀嚼できていないところや読みづらい点があるのはすみません)
挑戦しようと思い立ちこうして7,000近く(!)にも及ぶ文字を連ねさせているのは、その歌詞を書いたのが海人くんという、人となりがとても素敵な貴方だったから。

とはいえすべてを理解することはきっとできていないし、何なら本意ではないことも書き連ねちゃっているかもしれません。
すべてわたしが至らないせいです。
というかそもそもこの文章そのものが野暮の権化かもしれません。すみません。
そんなわたしが言うのも何ですが、ご自身の感性はすべてご自身のもの、どうかこの作品に誇りを持ち続けてください。
わたしも少しでもより理解に近づけるように、研鑽を続けてまいります。

そして最後に。
素敵な曲に出会えて本当に嬉しい、心を尽くして綴って届けてくれて、本当にありがとう!
これからもたくさん、愛させてね🫶

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