第6話/グレート・ギャツビー・ショーンK

ショーンKが高校二年生の時のことだ。熊本の秋のある夜。木の葉の舞い落ちる街筋をKと百合は歩いていた。そのうちに一本も木立のない所へ出た。歩道が白く月光を浴びていた。二人はそこで歩みを止めてお互いにむきあって立った。

春と秋と、年に二度訪れるあの神秘的な興奮をうちにたたえた涼やかな夜だった。家々のもの言わぬ灯も闇の中に何ごとかをささやき、星屑もおののき騒いでいる。

ショーンKは、自分の目の片隅に、熊本から何キロも続く歩道が本当のハシゴになって、遥か遠くの東京の六本木の丘まで通じていることをはっきりとらえた。熊本を出て東京に行くことを、彼は予感していた。

もし彼がそのハシゴをひとりで登るならば、そこまで彼は登って行ける。そしていったんそこへ行きつけば、生命の糧を吸収し、たぐいない脅威の乳をとくとくと飲むことができるだろう。

胸の鼓動がますます速くなったとき、百合の白い顔が彼の胸に迫ってきた。百合は九州の大学を受験するつもりだった。この娘にキスし、いうにいわれぬ自分の夢をこの娘のはかない呼気に結びつけたならば、もはや自分が九州を離れて天翔けることができないのはわかっている。

だからKは、以前テレビで見たジュリアナ東京の狂おしい響きになお一瞬耳を傾けながらためらった。それから彼女にキスした。彼の唇にふれられて、彼女は彼に向かって一輪の花のごとく開花した。同時に彼の夢も一個の人間の姿に具象化されたのである。

ショーンKはいろいろと過去を私に語った。

それは不快な感傷に彩られていたとはいうものの、40代の男が、高校時代の思い出をここまで瑞々しく話すことに、私は奇妙な感動を覚えていた。

そして、何かを取りもどそうとしているのだ、百合を愛するようになったなにか…おそらくは自分に対するある観念をでも…取り戻そうとしているのではないかと思った。後から分かったことだが、実際に百合を愛するようになってから、彼の人生は嘘で紛糾し混乱してしまったのである。

ショーンKの思い出話につられて、私は自分が東京に出てくるまえの、滋賀の高校時代の事を思い出していた。

私は3年間、水泳部の同級生に片思いをしていた。出会ってまもなくから好意は伝えていたものの、エース選手で全国大会にも1年生の時から出場していた彼女は「今は水泳しかない」と私に告げていた。

ある夏の雨の日、誰もが休んだ後でも一人でプールを延々と泳ぐ彼女を、私は遠くから虚しく見つめていた。他の水泳部員がサボっているように見えるその状況からか、「練習しすぎだ、ありゃ長くもたないぜ」という部員の声が漏れ聞こえてきた。

高校を卒業してすぐ、一瞬だけ時間ができた彼女と夜を散歩した。野洲川のほとりで守山の蛍が川床を舞い、滋賀の素晴らしき星空と…彼女の大きな瞳が瞬いていた。

その時のキスの味は…ワインに等級があるようにキスにも等級があるなら、3年間プールで熟成されたその味は、まさに神の雫とでも呼ぶような、全身が光に溢れるような、どのワインにも代えがたい本物だった。

その後、東京に出てからのテキーラまみれのキスとは何もかもが違っていた。やたらパーティが多いこの街で味わう、見た目や学歴や年収で査定される意識的な恋愛の中で、即席に作られるワインは確かに酔いはするが、あの滋賀の夜のワインとは比べものにならなかったのである。

ただ私はその後、そのようなワインを味わうことをなく年を重ねた。そしてもはや、目の前にそのワインが差し出されても、かつての自分のようにそれがそのワインだと確かに当てられるとまでは、今の自分を信用してはいなかった。

だから私はショーンKに言った。

「過去はくりかえせないよ」

「過去は繰り返せない?」

そんなことがあるかという調子で彼の声は大きくなった「もちろん、くりかえせますよ!」

そういって彼は、やっきとなってあたりを見まわした。彼の家が影を落としているこの庭の、どこか手をのばせばすぐ届くところに、過去が潜んでいるかのように。

「わたしは、何もかも、前とまったく同じようにしてみせます」断固としてうなずきながら彼は言った「あの人にもいまにわかります」

私は困惑していた。彼の話に登場する富成誠治と百合は私の慶応大学時代の学友であり、そして百合とは、富成の妻に他ならないのである。

そもそもなぜショーンKはこんな話を私にするのだろう?私を慶大出身だと知ると、彼らを知っているかとすぐに聞いてきたのも彼だった。

彼が先ほど話したことは、私も知らないことばかりだった。てっきり富成と百合は高校時代から付き合っていたと思っていたからだ。彼の話を信じるならば、百合と付き合っていたのはショーンKだったのである。(続く)

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※参考:新潮社「グレート。ギャツビー」フィツジェラルド 野崎考訳
※この記事はパロディでフィクションです。


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