「敵と仲良くなる」M1グランプリと「ご当地ゆるスポーツ」の優勝結果が一致していた

いやーおもしろかったですね、M1グランプリ。

ボケをツッコミが否定せず肯定するという「ノリつっこまない」、正確にいうなら「ノリつっこみノリ」を発明したぺこぱ。謎かけに対する答えを、否定して肯定して否定するという、フリおちフリおちフリ…とエンドレスに続くミルクボーイ。斬新さはなくても抜群の技量を見せるかまいたち。

ぺこぱとミルクボーイは、既存のお笑いに対し問いを立てているように感じた。フリとオチ、ノリつっこみ、もはや一般人が誰でも知ってるような漫才をするのは古すぎませんか?といような。

松本人志さんがかつて「二度ボケ」という方法を紹介していた。いまの視聴者はフリをいった時点でオチを予想するから、その予想されたオチをずらしたオチをつけないといけない、という話。

ぺこぱとミルクボーイも同じように既存の技法をアップデートしている。コンテツを作る方法でよく、Why(なぜ作るのか?)What(なにを作るのか?)How(どのように作るのか?)と分ける時があるけど、かまいたちはHowは抜群で素晴らしかったけどWhyはなかった。

Whyは仮説を立てることで、たとえばぺこぱとミルクボーイには、「なぜ作るのか?それはもう既存のお笑いの手法、相手を否定して終わることが古くなっているからです」という思いがあったのかもしれない。知らんけど。

面白かったのは、たまたま同じ日に参加した「ご当地ゆるスポーツアワード」という、ご当地をテーマに創造されたスポーツの大会でも、同じように既存のスポーツの概念を崩した「アブウド採らず」が優勝したこと。

このスポーツは、ご当地の祭りの歌にあわせて競技をするのだけど、戦いながらも、歌は一緒に歌って踊るという謎のグルーブ感がある。よくインド映画で、激しく戦っていた敵味方が、音楽が流れ出すと仲良く踊りだして、曲がおわるとまた戦いにもどる、、、そんな感覚と似ている。

このスポーツでは、そもそも敵と争う自体に問いが立てられている。敵と仲良くなるのがゴールなのだ。仲良くなることと楽しみを重視し、スポーツ弱者を世界から無くそうとしている「ゆるスポーツ」は今後発展しそうだ。

余談だけど沖縄のご当地ヒーロー「琉神マブヤー」も似てるなと感じた。このヒーローは画期的な武器「ゴーヤヌンチャク」を操る。2つのゴーヤをつないだゴーヤヌンチャクで打たれると敵は心身ともに健康になり、どんどん素直になって敵意をなくして去っていく。

私もかつて、ヌンチャク修行のために渡米してテキサス州の空手道場で修行していたので、このゴーヤヌンチャクに興味をもち、琉神マブヤーのプロデューサーに聞いてみたことがある。「なぜ敵を健康にするのですか?」と。

するとそのプロデューサーはこのように話してくれた。

琉神マブヤーのコンセプトは沖縄の言葉では「てーげーにする」。相手を追い詰めないことなんです。いくら自分が正しくても、小さな島で相手を追い詰めてしまうと、追い詰めた人もその島にはいられなくなってしまいます。だからマブヤーも敵と戦うけど、追い詰めないんです。

話を戻すとぺこぱとミルクボーイとアブウド採らず、いずれも相手を否定して終わらないってことは共通しているという奇妙な一致を感じた。そのような対話を時代が求めているから、一致したコンテンツが出てくるのだろう。

以上はコンセプトの話だけど、技法でいうとぺこぱとミルクボーイの方法は会話がジグザグになっているところが似てる。「ノリつっこみノリ」「フリおちフリおちフリ」上げて下げてを繰り返している点では共通している。

ここでクリエイターなら、マンガの原作でも映像の脚本でも会話を書くことが多いので、今回発明された「敵を否定しない」「ジクザグ会話」をどう活かせろうだろうか、という発想になるだろう。

もちろん表面的にぺこぱのキャラを真似たりミルクボーイの形式をそのまま真似るのはパクリになってしまうのでダメだ。しかしこういった抽象度をあげた、根本的なコンセプトや構造は活用してもかまわない。

SHOWROOMの前田裕二さんの著書「メモの魔力」でも、なにかを見たらその本質はなにかというように抽象度をあげて考えて、その本質を別のことに転用できない考えるってことが書いてあったけど同じ話だ。

多くのクリエイターもこうやって自分の技術のバリエーションを増やしていく。パクリにならないために大切なのは、新しいものを見たときに、どういう構造で出来てるかを考えることだと思う。

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