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編む


最近は何も、心にとまらないのであった。
何も、何も?本当に?
いや、とまる事があったとしても、文字に表そうという気持ちまで辿り着かないし、辿り着いたとしても書く気力もないのであった。そうこの今まさに書いている文章も、書いているそばからもう飽きて来ているのだ。
このまま心が枯れて行くのだろうか恐ろしい。
本当に?恐ろしい?
恐ろしくはないけれど、つまらない。
書きたい気持ちにならないというのは、つまらない事なのであった。今日も生きた、生きました、という充実感のない日々が続くばかり。

仕方がないので、というか何ヶ月か前に編み物をしたいな初めての、と思い買った毛糸の黄色さであったが不器用のあまり直ぐに挫折し放置したまま部屋の隅に悲しく放って置かれたくすんだこの黄色をなんとか生かしてみようと思い、100円ショップで誰でも簡単に編めますよーとその存在をアピールしていた編み機というものを買ってみて今編んでいるところである。

これは子供向けなのであろうか。本当にあっという間にズルズルと、気付けば垂れ下がるように編めてる。すごい。
そりゃあそりゃあ本当に編み棒で編んだやつの方が目が細かく繊細に編めるのであろうが私にはこれくらいで十分。というかこれも本当に最後までやり遂げられるのか怪しい。
いや、編むよ、編む。
最後までこの可愛らしい黄色を編み遂げて首にぬくぬくと巻きつけるのだ愛着。
冬よ待っててね、すぐそこね。


詩、詩人。
詩人とは誰であろうか、いつも心に詩が生まれている人のことであろうか。
ならば、ならば私は詩人ではない。
いつも生まれてはいないもの。
長らく生まれてはいないもの。

かつて、かつて自分と詩は当然のように一緒に生きていた。たとえ誰に見せなくても誰に認められなくても、詩の中にすっぽりと収まりながら包まれながら、敢えて大袈裟に言うのだが、世界を寄せ付けないように詩の中に頭をズボッと突っ込んで生活をしていたそれはまるで陶酔。
心は目の前の雑多から離れ一点を見つめる瞳には涙。なんの涙。陶酔した世界の美しさ哀しさ汚さ醜さに涙。それが私を支えていたのだから大きな力。

今は私は、どんな状況なのだろう。
心が年老いて(いやいや、心だけではなく実際若くはない)、何も感じなくなってしまったのだろうか。そんなはずはあるまいまだ生きるし。
突き詰めるのは恐ろしいね、やめておこう。
それより、編もう。編もう毛糸を。
編んで編んで編み上げて首にぐるぐる巻けば、今日も生きた、生きましたと、可愛らしい達成感に辿り着くかもしれない。
待っててね、冬。すぐそこね、冬。
そう言えば私、冬生まれでした。
十二月、とてもいい月に生まれたんだった。
いい月。十二月。
もうすぐね、すぐそこね。






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