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生きたり生き存えたり日記、7月(上)

某月某日 (月)
日常的にChatGPTを使うようになった。今日はめんどくさいメールの返信を考える時に、ひとまず今の状況を書き連ねてEnterを押すと「こうしてみるといいですよ」と返ってきた。時々的外れな回答もあるけれど、その中にある「まあ、それが妥当ですよね」という頭の中に浮かんでいた部分と重なる部分や、お!それいいかもね、みたいな部分とを合わせて、返信を書く。相手の卑しい部分が急に立ち現れて、それをどういなすか。こちらのシャッターを下ろすこともできるけど、急激に下ろすよりかは、こちらの要求を伝えることも諦めたくない。


某月某日(日)
調味料の棚の整理をしていたら、ふと昼寝の内容を思い出す。30分かそこらの昼寝であったが、私は夢の中で世界を救っていた。救ったことは覚えているけれど、自分の役職も、敵のことも思い出せない。

夢とは不思議なもので、知らない世界に掘り出されても、そこがどういう場所なのか知っている。初めて訪れる自分の家なのに、どこに自分の部屋があり、どこに隠し通路があるのかわかっている。また、夢の中でしか訪ねることのできない街があって、そこは10年前の夢でも訪ねたことがある場所で、今回の夢はその10年前の続きだったりすることがある。

夢は一つの聖域であり、その聖域は現実世界から守られているようでいて、双方向に染み出し干渉している。その干渉は、ふとしたタイミング、靴紐を結ぶために前かがみになるような、そういった些細な身体操作が引き金になり、忘却させられていた記憶が蘇り「そういえば今日の昼休みに世界を救ったんだっけ」などと思い返す。

某月某日(土)
写真を上手になりたい

某月某日(火)

撮影という行為は、その行為の中にいる時は非常に愉しいものである。外界に対して自分自身が興味を持ち、探りたい、知りたい、残したい、そういった思いでシャッターを押すから、撮る行為は基本的に自分を暖かく抱きしめている。

一方で写真を見返す時は、被虐的な思想にまとわりつかれて、なかなか前に進むことが出来ない。自身の力のなさ、技術のなさ、センスのなさ、そういったものを具体的に叩きつけられるようでいて、まるでシャッターの前後で人格が分離したように苦しくなることがある。

とか、思っていたが、本当はどうなんだろう。30枚に1枚くらいはこの写真いいなと思うのがあるから、それだけ選んで編集作業を行えばいい。全部が全部、素晴らしい必要なんてないし、とびきりこれは良いなと思うものが、時たまあれば良い。

某月某日(木)
先日、久々に電車に乗った。6月は2回だけ電車に乗ったのだが、その二つの日は思い返せば愉しい日で、いつもと違うところに行って、たまたま目に入ったものに近づいて、観察して、見返す時のことなんて考えずに写真に写し撮って、ニコニコしていた。人に話しかけたり、話しかけられたりしながら、何を話したのか具体的に思い出せないけれど、ああ愉しかったなという多彩な時間が日々の中に散らばっていることが大事だ。

友人に電話して「久々に電車に乗って、知らないもの見て、知らない人と話をしたら、とても楽しかった」と話をした。彼からは「新造と移動は相性がいいから、もっとたくさん動き回りなよ」と言ってくれて、その通りだと思った。そしたら、なんだか元気が出てきた。

人に会う口実には何があるだろう?と脳内サーチをかけたら「心臓コーラを飲んでもらったらいいのでは?」とかなんとか出てきた。美味しいものを飲んでもらおうとか、そういう風に気張るんじゃなくて、作りすぎたので、ちょっと仲のいい人とか、これに興味を持ってくれる人に会うためのきっかけづくりの装置くらいに捉えらたら、いい感じだと思った。

心臓コーラのコンセプトには人権問題を置いてしまって、自分は何も知らないのに何を偉そうなことをやろうとしているんだ、とか思ってしまうのだが、それは、おそらくやらないためのかっこつけた建前で、実際は、めんどくさいだけなのだと思う。何も知らないのであれば、一緒に学んでいくようにすればいいだけで、そっちの方が楽しそうだし、教えるためには自分は完璧にならなきゃとか眉間に皺を寄せたくない。

某月某日(木)
写真の編集も、いざ始めてみると、まだまだ未熟だなとか、そういったことも言うことはできるとけど、楽しい、という気持ちもある。時間が有限なので、この辺りで今回はやめにしておこうか、などと終わりの設定も自然と出てきて、始める時は向くし、いざ始めてみると被虐的な思考は弱くなる。手を動かすことをしないと、被虐的な思考だけがどんどん長くなるから、自分の雑魚さを認めて、まずは初めてみることなのだ。


いただいたサポートは、これまでためらっていた写真のプリントなど、制作の補助に使わせていただきます。本当に感謝しています。