決戦! 長篠の戦い その1

鉄砲の三段撃ち、鉄砲対騎馬、織田・徳川連合軍が武田軍を破る・・・
このような内容で誰もが一度は日本史の教科書などで習ったことのある戦いが長篠の戦いです。1575年5月、織田・徳川軍は設楽原に馬防柵を築き三千丁の鉄砲を使用して三段構えで一斉に交互に武田軍に発砲した。そしてこの戦いでは信玄亡き後の2代目勝頼が重臣たちの意見を聞き入れずに無謀な突撃を繰り返し大敗したと言われることがあります。かつては勝頼は凡将であると伝えられてきました。果たして真実はどうだったのでしょうか。
                  

画像1

画像2

↑ 設楽原の馬防柵付近の合戦図

私は以前から長篠の激戦地を訪れたいと思っておりました。一時期、武田家支配下の地に住んでいたこともあり、武田信玄で有名な武田軍が信玄亡き後、どのような運命をたどったのか。そして戦国時代の分岐点となった長篠の戦いとはどのようなものであったのか、実際に戦いのあった地をいつか訪れてみたいと思っておりました。また、戦場の舞台が丘陵に囲まれた農地であり自然を感じられるのも私の好きなポイントでした。

出発の日が決まったのは妻の一言。それは2月の週末のことでした。
「そういえば○○(私の名前)が最近よく言っていた設楽が原?って愛知県だっけ?。明日そこに行ってみない?味噌カツ食べれるかなぁ。」
前日に何気なく発した妻のこの言葉。最初は私も、「急に明日と言われてもなぁ・・どうしようか・・」と言いましたが、でも気候的にも今が良いかぁ。花粉もまだ少ないし、虫もいないはずと思い翌日に決行しました。
レッツらゴー(少し表現が古い)。くれぐれも車の運転には気をつけなければいけません。


ということで、まずはどのような場所であったか現地までの道順と一緒に写真で少しだけ紹介しましょう。東京から高速道路で妻と息子と3人で出発。圏央道で静岡県を経由して愛知県東側の設楽原歴史資料館を目指しました。
ついにこの日がきたか・・・。いつか訪れるだろうと思っていた設楽原。所要時間は片道4時間。途中で約20分の渋滞、サービスエリアでの休憩などがあったので、休憩や渋滞が無ければ3時間ほどで到着します。想像していたよりも近かったです。20年ほど前に仕事で愛知県を訪れた際には遠く感じたのですが、最近は圏央道が開通し、新東名も開通しているので近くなったのですね。それにしても戦国時代の人々はこのような長距離を徒歩で進んだのかと思うと圧倒されます。ものすごい脚力ですね。ちなみに武田軍は甲斐(山梨県)の甲府を出発し信州(長野県)の高遠あたりを経由して木曽の山を南下して長篠へ進軍したようです。

そして無事に愛知県の新城市(しんしろし)の設楽原歴史資料館に到着。到着地の手前には首洗池や武田家の武将たちの墓への案内標識が立ち並び、戦場跡地の空気が感じられます。そして資料館敷地内にある信玄塚の前で、長篠の戦で亡くなった武田家の人々へ手を合わせた後に、資料館へ入りました。

画像3

画像4

資料館に展示されていた孫子の風林火山の旗。長篠の戦いでは使用されておりません。

画像10

↑ 同じく資料館に展示されている、武田の赤備えとして恐れられた山県昌景(やまがたまさかげ)隊の胴具足

資料館を出た後は馬防柵のある設楽原(したらがはら)へ行きました。戦いが行われた場所は設楽原と呼ばれており、長篠の戦いも近年は長篠・設楽原の戦いと呼ばれています。

画像6

↑ 資料館の屋上から望む馬防柵。背後には弾正山。

画像7

画像9

↑ 馬防柵

画像9

↑ 設楽原に流れる連吾川。川幅は2~3m。当時は梅雨時。川幅はもう1~2m増していたと思われます。

最後に長篠城址跡保存館へ。

画像10

↑ 保存館に展示されている当時の火縄銃。実際に持つことの出来る展示用の火縄銃もありました。

画像11

↑ 長篠城の本丸。保存館側。

画像12

↑ 長篠城の本丸の保存館とは反対側。そこから見える鳶ヶ巣山。

その後は、そのまま帰らずに子供の希望で浜松のブックオフへ行きました。すると、途中で井伊谷(いいのや)の道を通りました。そう、大河ドラマ「おんな城主直虎」の井伊直虎が生まれた場所です。車で通り過ぎるだけでしたが偶然にも直虎ゆかりの地を訪れたのでした。さらにもう一か所、信玄と家康が戦った三方ヶ原(みかたがはら)の古戦場跡も見ることができました。ここは石碑と案内板があるだけでしたが偶然にも通りかかってラッキーでした。

帰宅したのは夜の10時でしたが、いろいろ見れて満足でした。

さて、今回は旅の紹介でしたが、次回以降はいよいよ肝心な長篠・設楽原の戦いに迫ります。その前段階として武田家の流れとして信玄時代の説明を簡潔に述べていきたいと思います。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?