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花火が鳴る中で 2007年ぐらいの夏の日記

私が小3、4ぐらいの頃、父親が夏の間だけ新潟に単身赴任していたことがある。

父親の仕事内容なんて当時は知らないし、なぜ夏の間だけなのか、なぜ新潟だったのかは知らない。
息子と父親の関係性なんてそんなもんだ。

夏休み真っ只中、私たちは新潟の父親のもとへ遊びに行くことになった。
この“私たち”とは、10歳前後の私と、2歳下の妹と5歳下の弟の3人のことを言っている。

母親は留守番。子ども3人だけで新幹線に乗って行くらしい。

当時ガラケーすら持っていない私たちを新幹線に乗せて大宮から新潟まで輸送する親の度胸、見習わなければならない。
大宮駅のホームまでは母親がついてきてくれたが、新幹線に乗り込むのは私と妹と弟だけ。
当時はおそらく平然と手を振って乗り込んでいたが、内心は心配で心配で仕方なかった。

父親が新潟の駅で待ってくれていると言われたが、降りる駅を間違えたり乗り過ごしてしまったらもう一生実家に帰れないかもしれないという底知れない不安があった。
両親が捜索願を出し、親戚一同で草をかき分けて私たちを探しているという最悪の妄想が頭から離れなかった。

私が泣きそうになりながら降りる駅名と到着時間が書かれたメモを握りしめている横で、妹と弟は仲良くいびきをかいていた。
我が家で度胸がないのは私だけかもしれない。

結果的に捜索願が出されることはなく、新潟の駅で父親と合流することができた。
新潟で何をするのか全く聞いていなかったが、どうやら花火大会に行くらしい。
陽が落ちかけていく中で父親の運転する知らない車に揺られ、芝生が広がる場所に到着した。

その日は長岡花火大会が行われる日だった。

だだっ広い芝生の上にレジャーシートを敷いて横になる。
目の前には薄暗い空が一面に広がり、吸い込まれそうで怖かったのを覚えている。

同じレジャーシートの上で、知らない人がパチンコ雑誌を片手に父親と楽しそうに話していた。会社の同僚らしい。
そのころから人見知りMAXだった私は、だんだん黒に近づいていく空をひたすら見上げていた。

日本一とも言われている長岡の花火だが、正直まったく覚えていない。
夜空一面に広がる花火がウリらしいが、私はそれよりも父親の同僚が読んでいたパチンコ雑誌の表紙のほうが記憶に残っている。
もしかしたら花火のタイミングで寝ていたのかもしれない。人生一番の緊張感で新幹線に乗り、知らない車で知らない場所に行き知らない人と花火を見る。小学生の体力と精神力はもう残っていない。

花火はまったく覚えていないが、その後に行った回転寿司はかなり記憶がある。
おそらくかなり遅い時間だったため、私たちともう数組しかおらず、静かな店内で寿司がキラキラと回っていた。
妹も弟もとてつもなく眠そうだったので、何貫かをプラスチックのパックに入れて持ち帰ったのも覚えている。

父親の借りるアパートに戻り、部屋を駆け回る余力もなくすぐに寝た。
翌朝のごはんは白米とやきとり缶。あと昨日持ち帰った寿司。父親は料理ができなかった。
でも、私も妹も弟も普段実家で食べない組み合わせに少し興奮していた。

やがて車で新潟の駅に戻り、私たちは母親の待つ大宮へと帰った。
帰りの新幹線については全く覚えていないので、この1日で少しだけ大人になったのかもしれない。

長岡の花火の記憶がないことについては1ミリも後悔していなくて、むしろこれまでに挙げたようなどうでもいい記憶が良い思い出になっている。
パチンコ雑誌、パックの中で崩れた寿司、米の上に乗った焼き鳥、すべてが良い思い出だ。

花火の音を聞くと、いまだにそれらをふと思い出す。

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