よしだのハッピーライフ工房

21歳で一家心中に遭い 生活苦と精神的な苦痛と闘いながらも 諦めることなく前進し 夜職…

よしだのハッピーライフ工房

21歳で一家心中に遭い 生活苦と精神的な苦痛と闘いながらも 諦めることなく前進し 夜職と昼職の掛け持ちをしながら 自分のやりたいことを楽しんできました。 バツイチ・子なしの現在40歳。 ゆっくりしていってね( ´•౪•`)

最近の記事

一晩だけのICU

一晩だけのICU 全然元気なのに…解せぬ…(´Д`ι) 鼻の下には酸素が流れてくる管 尿道にも管を突っ込まれ 腕は安定の点滴。 色んな器具を厳重に装備されたわたしは ICUに運ばれました。 窓から見える外はまだ明るかったものの あれからどのくらいの時間が過ぎたのかは わかりませんでした。 暫くして 事件の状況や、わたしが運ばれた後の 状況などの話をするために 救急車に同席してくれた刑事さんが やってきました。 「お母さんは残念ながら…」 わかりきっていたことです

    • 人生初の救急搬送

      人生初の救急車にて病院まで運ばれたわたし。 家からの最短ルートをイメージしても 15分はかかるところを 5分ほどで到着したことに こんなに早く着くものなのかと… と、呆然と考えていました。 救急外来へと運ばれたわたしは 頭部まで及びそうだった 首の傷を確認するために 右側の首後ろだけバリカンを喰らうはめに。 片側だけのかりあげくんと成り果てたわたしは 社会復帰後の髪型ばかりが やたらと気になってしまったのですが そんなしょうもない事を考えている間に 着々と処置は進ん

      • ニュースみたいな出来事

        21歳の誕生日を迎えたその一週間後。 梅雨の終わり、よく晴れた日でした。 朝起きると、妙な違和感を感じたのです。 いつも一緒に寝ていたチワワのワサビが わたしの布団にいないのです。 変だなと思い、わたしは下に降りて行き 父に声をかけました。 「吠えててうるさかったので、下の部屋に連れていった」 と、言われました。 違和感は他にもありました。 仕事のはずの母が、 キッチンにいなかったのです。 父に聞いても 「今日は遅番みたいで、疲れて寝ているから、まだそっと

        • 母の誕生日

          私は母とそこまで仲が良かったという わけではありませんでした。 弟が生まれてから 弟ばかりを可愛がる母を見て その溝はより一層深くなり わたしと母の距離は あまり安定していたとは言えませんでした。 わたしは産まれてすぐに 母の実家に預けられ しばらくはおばあちゃんが 育ててくれていたと なんとなく聞きました。 夜泣きもひどく、 父が夜になるとわたしを車に乗せて 寝付くまで車を走らせてくれたことが 一番古い記憶にあります。 どことなく、 わたしに対しての距離がある母と、

          再びの暗雲

          バイトにも徐々に慣れてきて 収入もそこそこ安定するかと思ったのも束の間 私は再び、父からお金を貸して欲しいと 言われるようになりました。 私が戻ってからも 父の仕事は週に数回のバスの送迎のみ。 母は休みも取らずに ペットショップの店長として働いていました。 高校生の弟の学費や教科書代などを 支払うこともできなかったので 私のバイト代からいくらかを渡して 充てていました。 しかし、運転免許を取るために 私は銀行からお金を借りており、 その際に、親から頼まれて上乗せで8

          人生の分岐

          地元へ戻るきっかけになったのは 彼氏との別れでした。 体重が10kgも落ちるほど、別れは辛く この先、生きていく自信もなくなるほど 落ち込みました。 しかし、いつまでもこのままではダメだし そもそも自立できていなかったことにも 原因があると思ったわたしは まずは車の免許をとりにいくことを決意。 地元へ戻って、1ヶ月で免許を取って 帰ってくることに決めたのです。 店長も仲間も、快く見送ってくれました。 そしてその1ヶ月の間は、 高校時代に働いていた店舗で働けるように

          自由になった気がした

          親元を離れて、開放的になったわたしは 車の免許はないにせよ とても自由に過ごしていました。 パートさんが仕事終わりに お買い物へ連れて行ってくれたり 歩いて動ける範囲で楽しみを見つけたり。 髪の毛も 思いっきり派手に金髪パーマにしてみたり。 店長には 「いい加減にしろ!」 と、何度も言われたのですが そもそも我の強いわたしは一切譲らず ピアスも派手なものを付けて個性を爆発。 しかし、その個性を貫き通した事で わたしに会いにきてくれる お客様も増えました。 ある日、外

          新しい進路

          途方にくれて 逃げるようにバイトへ行ったわたしの いつもとは違う様子に気づいてくれたのは 副店長でした。 休憩の時間を合わせてくれて 話を聞いてくれました。 大学へ行けなくなったこと。 急に就職と言われても 気持ちの整理がつかない事。 親に対しての気持ち。 友達には話せないような 本音の部分を 気がついたら話していました。 副店長はそれをずっと聞いてくれた後 「俺が店長をやる新店舗の立ち上げに、ついて来るか?」 と提案してくれました。 「俺が会社に交渉して、しば

          大学受験

          音楽を聞くことや 歌う事がとにかく好きだったわたしは 高校卒業後は 音楽関係の専門学校へ行き 音楽関係の仕事に携わりたいと とても強く思っていました。 しかし、両親は猛反対。 夢を追うよりも、 もっと現実的な進路を考えろというのです。 困り果ててしまったわたしは 他に何か自分が興味を持てることはないかと 思考を巡らせました。 思い出したのは まだ両親が保養所で働いている頃。 夏の繁忙期になると 都会からリゾートバイトの大学生が 住み込みで働きに来ていました。 ある年

          徐々に崩壊し始めた生活

          終焉は、高校の帰りの車の中で流れる ラジオの放送で告げられました。 『○○生命株式会社、倒産。』 父は運転しながら 青ざめた顔をしていました。 保養所の母体である生命保険会社が倒産。 その瞬間 わたしの両親は 職も、住むところも 失うこととなったのです。 私達家族は 不便だけど住み慣れた場所を離れて 引っ越しをしました。 母は新しい仕事を探して 昼夜掛け持ちで働きました。 しかし父は、 なかなか新しい仕事も見つからず 家に引き込もる日々。 時々、ホテルの送迎バ

          徐々に崩壊し始めた生活

          魔法を信じた両親

          そんな波乱の中学生生活を送りながら いつしか気付けば高校受験が迫ってきました。 私の両親は、仕事の忙しさから 基本的には放任主義で 勉強に関してなども口出しすることはなく、 良い学校に行けと言われたことも ありませんでした。 両親と進路や将来について話すこともなく 勉強することの意味もよくわからないまま、 ただ毎日を遊んで過ごし、 成績は当然下がる一方。 そんなある日、わたしが学校から帰ると 教材の営業マンと話している母がいました。 その営業マンは 高校受験に備えた学

          心機一転となるはずが

          中学に上がるちょっと前に 私の両親が転職をしました。 タクシーの営業所から 今度は生命保険会社の保養所の管理人。 キッチンと8畳2部屋の狭い家から 自分と弟それぞれの部屋が用意され 大きなお風呂と広いロビーのある 保養所での生活。 中学校生活も新しく始まり、 ここから再スタートを始めようと思って 迎えた入学式のクラス発表。 ここから3年間を共にする クラスの仲間の名前を眺めながら 新しいスタートに心躍らせていたその時 私は衝撃を受け、たちすくみました。 そう、あの

          幼少期の頃のよしだ

          保育園の頃から 長野県のとある山奥、 俗にいうリゾート地 なんて言われるところに引っ越して、 タクシーの営業所(待機場)で 住み込みの仕事をする両親と、 4歳離れた弟と共に 野生的(ワイルド)に育った私。 大人になるとその価値がわかるくらいの 大自然と美しい景色に囲まれてはいましたが 30分ほどの距離を車で送ってもらわないと 友達の家にも遊びに行かれないという 遊びたい盛りの子供にとっては なんとも不便な環境でした。 それに加えて、仕事で忙しい両親は ほとんど私たちに関

          プロローグ

          21歳の誕生日から一週間後 部屋は血の海に… わたし自身も血まみれとなり 安堵と、悲しみを抱きながら 警察に連れて行かれる父を見ていました… そう、わたしの父は 一家心中を起こしてしまったのでした。 あれからおよそ20年。 バツイチ・子無し40代の元キャバ嬢、 よしだです。 色で例えると8割緑。 山に囲まれた日本の真ん中あたりの 大自然で生まれ育ち ワイルドに成長したわたし。 リゾート地のタクシー会社の営業所。 そこに併設された8畳2間、 リビングキッチンの小さな居