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会議ではこんなこと話してます。アート・美術に対する見方が変わった話

和樂webでは週に1回、編集長の高木さんと常駐スタッフで編集会議を行っています。会議といっても、ほとんど高木さんが話すスタイルなのですが…。そこで繰り広げられるのは運用の改善策や相談ごとだけでなく、日本文化に関するありとあらゆる知識を高木さんから得られる(植え付けられる)場なんです。日本文化初心者の私にとってはどれも興味深い話ばかりで、これはみなさんにもお伝えしなければいけない!と使命感を感じた私は、先日密かに音声を録音してきました。会議でどんなことを話しているのか、文字修正(ほぼ)なしで公開します!(ちなみにトップの画像はたまにゲストで登場する高木さん木彫りの熊コレクションのひとつです)

高木:みなさん今日は近美(東京国立近代美術館工芸館)に行くと思うんですけど、ぼーっと観るのも良いですが、「工芸と民藝の違いは何か?」「明治で工芸の何が変わったか?」ということを考えながらみてみましょう。

とま子:工芸と民藝の違いは確かwebに記事がありましたよね…

高木:じゃぁ、明治で工芸が華開いたのはなぜかわかる?とま。

とま子:元々、刀を作っていた職人が…みたいな感じですよね?

高木:江戸と明治の違いで言うと、一番の大きな違いは江戸までは頼まれ仕事だった。発注者がいて、「このようにつくってくれ」って指示する、だから職人は技に集中する。でも明治になると発注者がいなくなって、職人自身が考えなくちゃいけなくなる。現代でもそれが続いていて、今の工芸の一番の問題点というのは、発注者がいないまま職人がつくっていること。せっかく技があるのに、それが発揮できなくなっている。今は、デザイナーがたくさん制作に入っているけど、そうなった時の問題点はデザインコンシャスになってしまうこと。発注者のコンシャスではなくなってしまう、そこがすごく問題なんです。

とま子:(あっ始まった!いつもみたいに話がどんどん広がっていく。これは長いぞ…)

高木:「こういうのをつくりたいんだ!」じゃなくてデザイナーが「こういうデザインで!」っていう。でも本来はそうじゃなくて、元々工芸も絵も発注者がイメージを伝えて職人や絵師がそれを仕上げていくものだった。この間、東博(東京国立博物館)で武具とかを観たと思うんだけど、江戸まではいろんな工芸の技が集まっていた。

例えば、ここにひとりのプロデューサーがいて、そのプロデューサーがこの人、この人、この人…って各技を発注してその集合体として武具ができるんだけど、発注者がいないとその技の集合体というのができないので、明治以降はそれぞれの技ごとに作品ができていく。だから、工芸の展示とかに行くと金工とか漆芸とか染織とか技ごとの展示になっていることが多い。

とま子:確かに……!!!

高木:日本におけるアートの受容のされかたってなんなのかって考えると…じゃあ、日本でアートができたのは?

とま子:明治ですか?

高木:そう。じゃあさいころさん、日本でアートを訳すと何ですか?

さいころ:芸術?

高木:術なんですよね。芸の術、技よりになっていますよね。でもアートっていうのは本来、コンセプチュアルなものなのでヨーロッパとかアメリカでは「アート=考え方」なんですよね。コンセプトが非常に重要なんですけど。明治にアートが日本に入ってきた時に「美術」、「芸術」と訳してしまったので、技とか技法の術が…だって、芸ですよ?技の術なんです。その考え方が今までまだずっと引っ張られてきているんですね。学生のとき美術の時間って、点描とか遠近法とか、なんとか技法とか技を中心に教わるんですが、ヨーロッパとかアメリカではそれはほとんど教えません。

じゃあ、どんなことを学んでいるのかというと、アートの流れなんです。例えば、そもそものアートの表現はラスコーの壁画から始まって、それって化粧と同じ表現なんですよね。ということから始まってギリシャ時代、ルネッサンス時代とか、そういう風にアートの文脈をきちんとおさえているので、ヨーロッパの人たちって美術館に行って何を観るのかというと、「あっ、この作品ってこの文脈の中のここに当てはまるから重要なんだな」って。それに対して日本人は明治までアートっていう概念がなかったんですよね。基本的には装飾芸術。軸とか屏風とか障壁画とか全部生活に根ざしたものだった。だから画家じゃなくて絵師。アーティストじゃなくて職業絵師だった。みんな誰も自分のことを表現しようとか、「アートだ!」と言って表現していなかった。それがずっと続いて、突如明治になってアートが入ってきたんですけれど、それに付けられた言葉が「芸術」だったので、そこから日本人のアートの悲劇が始まる。

とま子:ひ、ひ、悲劇……!!

高木:だからヨーロッパの人がアートを観るときに重要なのって、こういうようなアートの流れがあって、自分がつくるアートがここに当てはまるとか、ここにインパクトを与えるとか、そういうことに対して評価が与えられるんです。だからピカソは、三次元、立体物を平面に表現した。その考え方に対して評価されている。絵の描き方はそこまで評価されていないんです。

バンクシーが評価されたのは、芸術家とかアーティストは自分の名前をきちんと出してそれをキャンバスに残すっていうのがそれまでの流れだったけど、道に描いたり流していったり消したりだとかアートの流れを変えたよね。だからバンクシーは評価された。アンディウォーホルは、シルクスクリーンで作成したマリリンモンローの作品があるけれど、あれってスチール写真から肖像画を切り出して刷っただけ。一点一点時間をかけて描かなくてもアートになり得るんだっていうことで評価された。

世界的評価の高い日本人のアーティストは「オタク」や「かわいい」っていう日本の文化を日本画的手法で表現した。それって、日本のポップカルチャーをアートにするっていうことがヨーロッパのアートの文脈に対してインパクトを与えた。そういうのは今までアートの流れにはなかったから。杉本博司さんに「シアター」という作品がありますが、「シアター」は映画館で一作の映画が流れているのをずっと露光していた。最終的にはフィルムに光がぜんぶ露光されるからスクリーンは光で埋め尽くされて真っ白になる。映画というのは、写真に落とし込むと全て光になるんだ、というコンセプトが評価された。もちろん、その作品自体も美しいですが。

だから、日本のアートが勝てない理由って、いや、ほんとは勝つ必要なんてないかもしれないのですが、実はそこにあってアートの文脈を学べていないから。逆に北斎とか広重とか江戸の職業絵師たちみたいに技が突き抜けている人たちがいて、それが今海外でアートとして再評価されている、というのも面白いですよね。そういった根本的な基本ルールみたいなのがあってそれを知ると、絵とか工芸とか作品の見方が変わりますよね。

とま子:(北斎ってやっぱりすごいんだなあ〜)

高木:日本画が誕生したのも明治以降なんです。それまでは画家ではなくて絵師だった。高橋由一の有名な作品に鮭を吊るした絵がありますが、あれは日本的題材を最新の油絵の技法を使って描こうとした、逆に横山大観は日本の技法を突き詰めようとした。大観は春草らと日本美術院を創設した岡倉天心の元でまったく新しい日本画を創造しようとしてたけど、当時の江戸の流れを残した人たちからは全く評価されていなかった。朦朧体っていうボワっとした表現があったんだけど、江戸に生きている人たちにとってはあまりにも斬新すぎていた。だからある意味、大観とか春草は当時革命家だった。でも今はそれが大御所として捉えられ日本画とはそういうものだってなっている。アートの歴史はカウンターカルチャーの歴史なんですよ。

ただ今一番評価が高くそれにともなって値段も高いのは、院展の作品群。院展の院はかつてはこき下ろされた日本美術院の院なんです。院展の画家たちの作品がなぜ多く流通するかというとマーケットがあるから。明治以降は誰が描いたかはっきりわかる。そこはちょっとヨーロッパと似ている。ヨーロッパのコレクターたちは基本的には絵を投資の対象ともして作品を買う、投資の対象として買うということはそれに堅牢性がないと買わないですよね。そういう意味でも、江戸期の日本美術の絵ってあまりにももろいので投資の対象にはならない、、、

というわけで、みなさん、世界の美術の歴史と文脈を学ぶのに最高の美術館が大塚国際美術館であると。

鳩:今日行くところじゃないのか〜〜

高木:工芸館はそういう目で観てきてくださいね。

ここまでの高木さんのお話は約10分。私はいつも美術館に行くと個人的に好きな作品をずーっと眺めているだけだったのですが、改めてアートと日本美術、その歴史をきちんと知ることで、作品の見方がガラッと変わりました。それにしても高木さんの話はいつも面白い!今度noteでラジオもやってみたいです。


その後の工芸館のレポートは鳩さんがまとめてくれました!▼







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