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寒雲亭

鎌倉東慶寺にて開催された観音縁日月釜に参加し、かねてより関心のあった茶室「寒雲亭」に初めて席入りしました。

茶室の構造そのものは付書院のある八畳間で躙口はなく貴人口のみ、床の間と鉤の手の二枚襖を開けると、四畳枡床の小間と繋がっています。
千宗旦が建てた茶室ですが、天明の火災で一度消失しその後再建されております。


明治時代に諸々の事情により裏千家から東京の久松家(旧伊予松山藩主)に渡り、その後昭和四年に裏千家の女流茶人の堀越宗円女史の鎌倉材木座の邸宅に移築されました。
記録によると昭和四年の八月に材木座での席披きが行われております。

堀越宗円女史は実家と嫁ぎ先が共に大資産家であり、行動力と才覚が豊かであったため名品道具で次々と大きな茶会を催して、茶人としての実績を積み、同時代の大物茶人の知遇も得て最終的に女性としては異例の裏千家老分に叙せられたという誉高き人物です。
護国寺に茶室艸雷庵を寄付し、また自邸にあった寒雲亭を高名な美術商の斎藤利助氏の仲介で東慶寺に寄贈したというスケールの大きさです。
なお、現在今日庵に所在する寒雲亭は写しで堀越邸つまり現在の東慶寺に所在する寒雲亭が本歌という驚くべき事実があります。

余談ですが斎藤利助氏は尚美庵と柴庵を朝吹常吉氏から受け継ぎ、それも東慶寺と同じ山ノ内の某所に移築して、それらが鎌倉数寄者の茶会の舞台ともなりました。そのような名茶室の移築先として山ノ内を選んだのも、鎌倉に小田原のような茶道の隆盛を夢見ていたのかもしれません。

話は寒雲亭に戻ります。
千宗旦が隠居後の自室も兼ねて建てたと言われておりますが、宗旦の時代にはまだ七事式はなく、稽古茶道も一燈宗室の時代以降に形式化されているので四畳半ではなく八畳という広さの根拠はいささか気になるところです。
ただ付書院の後ろに風炉を据えれば四畳半の小間として使用することもできるような計算が為されております。

襖の引手には梅の花の意匠が使われていることなど、茶室の詳細な話は席主と上客の方々との間でのみ交わされていて、しかも途中で茶や菓子が運ばれて来て、客作法に気を取られて聞き取ることのできない部分が多く、自分で調べた知識しかないのでありますが、この小書院茶室は門跡寺院の茶室のような中世的な雰囲気が強く、床の間に古銅の花入、付書院には文房具や香炉飾り、唐物道具の茶を行うには大変適した茶室のように感じました。

これは単なる想像ですが、利休の侘茶全盛の時代にあって晩年の宗旦は中世の書院の茶に懐古的な思いを馳せるようになったのかもしれません。

東慶寺では毎月18日にこの寒雲亭にて月釜が行われ高名な茶道教授の方々が席を持たれますが、中世的な書院の茶席が行われる機会があればぜひ参加したいと思いながら退席いたしました。