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些細な違いは時に無限の深淵を生み出す。

私は、日本生まれ日本育ちの純血中国人である。

ブログ開始当初公開する気はなかったのだが、この話をするにあたって、重要な事実であるので最初に記載しておこうと思う。





今日のお昼の出来事である。一人暮らしをしていて、家賃を振り込みで支払わなければならなかったので、家の近くの銀行に行った。

振り込みした後に各種振り込み手数料記載票を見てみると、当該銀行の口座を持っていれば振り込み手数料が無料になることが発覚し、どうせ後数年は住むのだからと、その場の勢いで口座開設をすることにした。毎月手数料のために495円払うのはバカらしいからね笑

口座開設において必要なのは、本人確認ができるものなので、つい先日取った運転免許証を渡す。

ちょっとそこの椅子にお掛けになってお待ちくださいと言われたので、待っているとなにやら別の行員の方がやってきて、これ〜と聞いてきた。あぁまたいつものことが始まる。

私の住民票に記載の氏名は、まず最初に中国語の発音(ピンインと言います)が書かれており、その後に日本語読みの氏名が書かれているので、多分どちらにすればいいのか分からなかったのだろう。

教習所の登録のときも同じようなことがあったので、そのときと同じように
「前に書かれているアルファベットは中国語読みで普段は使っていないので、後ろの漢字のほうを使ってください」
と言った。

その後順調に手続きは進んでいくが、たくさんの人が僕の対応をしていたし、ちょっと遅いかなぁって印象。

受付してくれたお姉さんがノートに外国人口座開設のやり方のメモをしていたことを考えるにどうやらあまり慣れていなかったかららしい。

1時間弱かかってなんとか口座開設にたどり着くことができたので良かった。



さて、この話で分かっていて欲しいのは外国人の口座開設に手こずった行員・銀行が悪いとかそういう話ではないということである。

慣れていない手続きではあるだろうし、誰だって最初はできないものなんだから仕方がない。

幸いなことに、旅行から帰ってきたばかりで予定があったわけではなかったので時間的にも大丈夫だったし。



前述のように、私は日本生まれ日本育ちなので、日本語は流暢に話すし、文化的背景も日本なので日本人らしい振る舞いをする。周りのみんなと違うのは、苗字と国籍ぐらい。

どこの国に所属しているか

たったこれだけの違いなのにそれは大きな差異を生み出す。例えば、永住権持ちの在日外国人であったとしても、国政選挙権は与えられないし、国家・地方公務員になることはできない。もちろん、議員になることができない。

つまり、私たちは日本がこの先どうなっていくべきかというのをただただ見守ることしかできないのだ。

日本国籍を取得(帰化)すればいいだけのことじゃないか、と考える人もいるかもしれない。


だけどね、それは違うんだよ。


仮に自分が外国に住むとして、あなたは簡単に日本国籍を捨てられますか?
自分のアイデンティティの一部を簡単に捨てられますか?


私は、自分のこの特殊なバックグラウンドを持っていることに対して誇りを持っているし、親が日本にやってきてしてきたであろうたくさんの苦労をむげにすることはできない。

それに、中国は民族意識が高いので、一度国籍を放棄してしまうともう一度中国国籍を取得することは不可能に程近い。帰化審査も結構時間かかるしね。

国籍を変更せざるを得ない状況出ない限り変えるつもりはないのが現状。



私がこのブログで伝えたいことは、

線引きをすると必ず境界付近にいる人が苦労をするということである。

国境というのは地球に元来存在したものではなく人類が後に勝手に作ったものである。だから、それには必ず問題が生じる。

最近読んだ東野圭吾の「片想い」の一部を抜粋させてもらおう。

「メビウスの帯を御存じですか」哲郎に訊いてきた。
ええ、と彼は戸惑いながら頷いた。
相川は持っていた紙の帯を彼のほうに差し出した。作ってみろ、という意味らしい。
哲郎は帯の両端を持ち、一方を一回捻った後、端同士を合わせた。正解だったらしく、相川は首を縦に振った。
「男と女は、メビウスの裏と表の関係にあると思っています」
「どういう意味ですか」
「ふつうの一枚の紙ならば、裏はどこまでいっても裏だし、表は永久に表です。両者が出会うことはない。でもメビウスの帯ならば、表だと思って進んでいったら、いつの間にか裏に回っているということになる。つまり両者は繋がっているんです。この世のすべての人は、このメビウスの帯の上にいる。完全な男はいないし、完全な女はいない。またそれぞれの人が持つメビウスの帯は一本じゃない。ある部分は男性的だけど、別の部分は女性的というのが普通の人間なんです。あなたの中にだって、女性的な部分がいくつかあるはずです。トランスジェンダーといってもいろいろいます。この世に同じ人間などいないんです。その写真の人にしても、肉体は女で心は男などという単純な言い方はできないはずです。私がそうであるようにね」

東野圭吾-片想い 第6章

さらに村上春樹の「海辺のカフカ」の一部を抜粋。

「たしかに僕はほかのみんなとは少し変わっている。でも基本的には同じ人間なんだ。そのことは君にわかってもらいたい。僕は化け物でもなんでもない。普通の人間だ。他のみんなと同じように感じ、同じように行動する。しかしそのちょっとした違いがときには無限の深淵のように感じられることがある。それはもちろん考えてみればしかたがないことではあるんだけどね」

※このセリフは大島さんという登場人物が主人公のカフカに自分がトランスジェンダー(体は女性で心は男性)ということを打ち明けたシーンである。

村上春樹-海辺のカフカ(上) 第19章

この2つの抜粋はどちらもトランスジェンダーについて綴られているものだが、話の詳細は違えど、根本の重要な部分は一致していると感じたので引用させてもらった。

私を含め、さまざまな境界に住まう人々はいつも

ほんのちょっと進めばみんなと同じになれるのに、そのちょっとが踏み出せないように人間がカテゴライズという大きな壁を作ってしまったためにそれが叶わない

という気持ちがある。最近は、多様性の考え方が受け入れられるようになって、昔のようなあからさまな差別は無くなったかもしれない。

でも、どこかお前は自分とは違う、普通じゃないんだというのが色々な場面で突きつけられる。

それは今日のような出来事もそうだし、普段の会話でもそう。

そして、マスコミなどで台頭する境界人はそのような苦労をある程度乗り越えた人たちばかりである。大抵の人たちは、それを乗り越えることができず、裏で(場合によっては無自覚に)苦しんでいるのだ。



みなさん、私は何も自分に対して特別待遇をして欲しいとかそんなことは一切言いません。でも、もしこのブログを読んでくれたのなら、

カテゴライズすることはいかなる場合においても問題が生じること、そしてそういう人も表に現れている以上にたくさんいるんだっていうことを知って欲しいです。

いち境界人としてのささやかなお願いです。








今日もたくさんの人がいろんな境界の近くでひっそりと戦っています。





P.S.
約束とか連絡は嫌・厳しいと言われることよりも、未読無視されたり、それすらも言われずに返信を忘れ去られたりすることの方が何百倍も悲しい。





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