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『ある精肉店のはなし』評/技能の必然性をとらえた映像記録

 名前だけは知っていた『ある精肉店のはなし』(纐纈あや監督、2013年)というドキュメンタリー映画は、ついに見る機会を逸したままだったが、公開10周年の記念日に当たる2023年11月29日、大阪・十三の第七藝術劇場にて上映があると聞きつけて仕事帰りに向かった。

 冒頭、家の裏にある牛舎から牛を引き出していく。男手一本でやや興奮ぎみの牛をなだめすかしながら屠場へ連れて行く。

 その日は「屠畜見学会」が催され、衆人環視の中、牛を「割る」のである。牛の眉間にハンマーを振り下ろして気絶させると、心臓がまだ動いているうちに頸動脈を切って血を流す。ナイフで皮をきれいにはいでいく……。一連の作業は熟練で、その手際の良さに息を呑む。

 舞台は大阪・貝塚の、江戸時代以来七代にわたって肉屋を営む一家である。牛を育て、屠畜し、食肉処理して販売するまでを一貫して担う。大規模化・分業化の進んだ畜産業では珍しくなった業態だという。

 映像の中に登場する作業、働きには、生きものの命を頂く営みにふさわしい、人間の身体性の躍動がある。それらに必然があり、合理があるという確信を持てる手捌きが映っている。

 にもかかわらず彼らは、差別の対象として社会から疎外されてきた人たちでもある。ムラの祭りに太鼓がないのは、藩から禁じられたとか、自粛したとかの説があるそうだ。

 市営の屠場は、先述した畜産業の構造変化の影響で利用する業者が少なくなり、閉鎖されることになる。本作ではその閉鎖のもようまで記録する。一家の屠畜の歴史は終わり、あの目をみはるような技能は役割を終えた。

 一方で一家の次男は、屠場の閉鎖が見えてきた頃から、だんじりなどに使われる太鼓を作る仕事を始める。牛の皮をなめして太鼓にする文化は、いっときこの地域では途絶えており、いわば技能の再生を図ろうというのである。

 終映後、トークイベントがあった。纐纈監督に加え、本作の企画過程に関わっている元大阪人権博物館学芸員・太田恭治氏、さらに被差別部落の芸能文化研究家である辻本一英氏が登壇した。

 辻本氏の肝煎りで、阿波木偶箱まわし保存会による、徳島の賀春の門付け「三番叟(さんばそう)まわし」の実演が催された。人形の動き・表情に心を奪われる。この人形遣いの技能も存亡の危機を乗り越え、辻本氏らの尽力で再生されたものだという。

三番叟まわしの人形

 しかし辻本氏は言うのである。教えようと思って教えられるようなものではないと。私はこの言葉を、標準化されたスキルとは違い、生活文化との必然性の中で培われてきた技能は、生活文化から溶け込まなければ継承などないという意味だと受け取った。

 『ある精肉店のはなし』は、その技能が必然であることを、ムラの歴史や生活文化と併せて描くことによって見事に示している。本作が鑑賞者に、人間の生の営みの崇高さを訴えかけることに成功した理由は、ここにある。


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