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映画『オッペンハイマー』評/「区分」が揺れる世界

 「区分化」というキーワードが頻出する。原爆開発に関する情報を、それぞれの当事者がどの範囲に共有するかは「区分化」されなければならないと軍人は言う。科学者はそれを守ったり守らなかったりする。

 区分をどこに見出すかを巡っても対立は起こる。ファシズムの前ではソ連もアメリカの仲間なのか、共産主義である以上は彼我は区別するのか。簡単に割り切れるものではなく、変化し得て曖昧である。

 本作のハイライトの一つである核実験のシーン。大気に引火して終わりなき連鎖反応を引き起こす可能性は「ニア・ゼロ」であるという。グローブス准将(マット・デイモン)は「ゼロ」を望むというが、その用意はないまま核実験は実行される。

 最悪の連鎖反応は起きず、核実験は成功した。科学者たちは、オッペンハイマー(キリアン・マーフィ)の複雑な表情をよそに歓喜に酔う。核兵器を、自らが取り扱える「区分」のなかで爆発させることに成功したからである。

 しかしその後のオッペンハイマーの立場は「区分外」に追いやられた。核兵器をいつどこで使うかの意思決定からは外される。「原爆の父」という英雄に区分され、そうかと思えばアカと通じる危険人物に区分される。

 善悪が簡単にひっくり返って揺れてしまう。人類が核に持たせてしまった厄介な性質をスクリーンに表現してみせた傑作である。

 ただ、それでも被爆国の人間としては、核の恐怖が一目瞭然に描かれなかったことには複雑な気分がある。あの実験後、ロス・アラモスの光景はどうなったのだろうか。土地が「返される」はずの先住民の暮らしはどうなったのだろうか。広島・長崎の映像を登場させるのは物語上無理があっても、ロス・アラモスなら出せたのではないか。

 その点で本作は、(現実の国際社会がそうであるように)核を絶対悪には「区分」しなかったように思う。伝記映画としてオッペンハイマー自身の、原爆に対する態度の揺れを反映した結果かもしれない。

 するとラストシーンすら、うがって見える。オッペンハイマーの幻想の中で、核は止まらぬ連鎖反応を起こし、地球は火に包まれる。この映像だけ単に見せられれば「核=絶対悪」のメッセージかもしれないが、本作が語ってきた「区分」の揺らぎの文脈からすれば、地球の終焉すらもオッペンハイマーにとってはむしろ「区分」からの解放なのかもしれないと思えた。

(2023年、クリストファー・ノーラン監督)
2024年3月31日、TOHOシネマズ梅田本館で鑑賞。


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