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平尾昌宏著『人間関係ってどういう関係?』

 ずっと「親友」が「友人」の一類型として位置づけられることに、なんとなくモヤモヤしてきた。

 例えば、異性の親友との会話の中で「私たちって絶対彼氏彼女にはならないよね」というセリフを聞いたとき、みんなはどう受け止めるのだろう。私も何人かから言われたことがあるが、正直少し淋しい気持ちになる。別に付き合う気などさらさらなくても、である。

 2人の親密さを形容する言葉として発せられていることは十分理解できる。そのこと自体はありがたい。「恋人」かそうでないかの間に大きな一線が引かれることも、引かれるべきであることも、よくわかっている。一般的にその線を簡単に踏み越えてしまおうとする男性が多くて(私にもそういう失敗はある)、辟易している女性が多いのもわかる。

 でも、この個別具体の2人の関係の親密さを強調するなら、一線は「友人」か「親友」かの間で引くものじゃない? なんでわざわざ「恋人」との間に引くの? という一瞬の違和感が生じる。「親友」も「恋人」も特別な関係には違いないのに、と思ってしまうのである。もしかして「本当の自分」は付き合いたいとか思ってるんだろうか。そんなつもりないんだけどなあ。


 本書は「身近な関係」をどう捉えたらよいかを整理する哲学である。お互いのことを知り合っていて(相互性)、かつ、一定の時間続く(持続性)人間関係として定義される「身近な関係」は、「個人」でも「社会」でもない、人々の具体的な生活を形成するものである。

 本書の戦略は、身近な関係を「タテかヨコか」「共同か相補か」という2軸によって整理しようというものである。

 「タテかヨコか」は対等かどうか、「共同か相補か」はつながっている理由が「同じだから」か「違うから」かである。例えば「部活の同期」は、同じ活動をするために集まっている点で「共同」の関係で、かつ対等な間柄なので「ヨコ」である、という具合である。

 「共同」の関係は、差異を超えて共通の目標や活動という一致点を見出すため、関係が広がりやすい。一方「相補」は互いが「違うからこそ結びつく」ので関係は閉じられやすい。

 そう考えると「友人」と「親友」はどちらも対等な「ヨコ」の関係だが、前者は「共同」、後者は「相補」の関係であると整理できる。最初は共通の趣味等で知り合った「友人」も、お互いのことをよく知る中で、それぞれの違いを理解し、それでもなお絆が深まっていくことで「親友」となっていくのである。

 そして「恋人」は典型的な「ヨコ」「相補」である。「親友」は「友人」よりも「恋人」のほうに近いのでは?という感覚はあながち的外れではなかったのだ!

 本書を読んでいると、「親子」「親友」などと名付けられた関係性が、その2人の関係をほとんど説明できていないことに気が付く。「私たちって絶対彼氏彼女にはならないよね」とわざわざ口に出されるのは、そういう言い方しか私たちは手近に知らないからなのだ。

 にもかかわらず、関係性の名付けは、「親子なんだから」「夫婦なんだから」と簡単に規範に結びつき、場合によっては不正義を正当化する道具にすらなってしまう。

 「タテ」と「ヨコ」の概念が面白いのは、本来、関係を取り払った「個人」同士は「ヨコ」のはずであるというところから出発する点である。普通は「ヨコ」であるにもかかわらず、「タテ」が存在するのはその必要性があるからではないか、という道筋だ。

 子どもは養育されなければ、独り立ちするための安全や知識を得られない。だから養育する者とされる者という「タテ」の関係がある。組織が効率的に運営されるためには、誰かが責任を持ってメンバーに指示していったほうがいい。だから上司と部下という「タテ」の関係が作られる。

 「親子」「上司部下」という個別の名称を一旦カッコに入れることで「タテ」の関係がどういうものかを見つめ直せる。そして、必要性から大きく逸脱した形で「親子」が持ち出されることは否定されるのだ。

 他者とうまく付き合っていくために、関係性をどう考えればよいのか。その土台となる見立てを示してくれる好著である。

(ちくまプリマー新書、2024年)=2024年2月3日読了


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