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信じることも考えることも

このところ、一部の宗教団体が取り沙汰されている。その批判の一つとして宗教とは一番根本が「信じること」だから、理屈ではない。考えることができなくなる。だから家庭が崩壊するまで寄付をしてしまったり、反社会的な行動を起こすのだという。
確かにこのような具体的な構図が出来上がっている場合には問題になるだろう。ただ気になったのは「信じること」が根本にあるということが問題だと誤解されるのではないかということだ。何かを論じるには、何かを信じなければならない。数学の根本には公理というのがある。自明の理というやつである。たとえば、どんな自然数を考えても、必ずその次の自然数がある、とかいうものだ。公理もたくさんあって、すぐには?というようなものもある。自明の理といわれているのに、だ。しかしそれを信じることで考えることができる様になり、科学が進歩し、多くの成果を得てきたわけだ。だから考えるためには最初に「信じる」ことが何かしら必要だと思う。
私は民主主義の先進国と言われる北欧のデンマークに3年前に留学してきた。そこでは毎年ボーンホルム島というところで、「国民会議」なるイベントを開く。まるでお祭り騒ぎの体だ。政治家も個人も自由にテーマを選んで対話する場を設けることができる。広く全国から人々が集まり聖域のない(様に見える)議論を楽しんでいるのだ。政治や社会問題、自身の暮らしに関わること全般について自由に考えることのできるイベントである。ではここの人々は根本に何か信じているのかと言えば、宗教はある。国教としてキリスト教福音ルーテル派が定められているが、イスラム教の市民も多いと聞く。信仰を持ち、なお広く議論をして考えているのだ。
それを見てきたので、「信じる」と「考える」は実は切り離すことができないのだろうと感じている。考えるためには信じなければならない。信じるためには考えなければならない。日本的に言えば、車の両輪である。もし信じることができなければおそらく、考えることもできない。もし考えることができないならばおそらく、信じることはできない。
何も信じることができなければ、どうだろう。最後は「自分が正しい」と根拠の乏しい命題を作り出してそれを杖にして頼るしかなくなるのではなかろうか。「信じた」「信じ込まされた」ためにひどいことになってしまった人は実は、何も信じられないところに追い込まれていたのではないのか。何も、誰も信じられないということは最大の不幸である。
デンマークではしかし、政治に対して市民は何を信じているのだろう。信仰の異なる人もいるので、教義ではないだろう。きっと個人主義のベースになっている平等観と相互の尊重なのだろうと思う。自分が相手を軽んじていないと相手が信じ、相手が自分を軽んじていないと自分が信じること。そこに生まれた対話が社会を変えてゆくという実績がデンマークを支えているように思う。

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